ラベル 遊び の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 遊び の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2014年3月10日月曜日

心の内なる滅私奉公

荻生徂徠が作った日本


日本が他のアジア諸国と異なる近代化の道を歩み始めるのは、いつからでしょう?
歴史の教科書では、明治維新が強調されますので、明治維新以後に日本は近代化の道を歩み始めるとの印象を与えています。
しかし、江戸時代の日本では他のアジア諸国にない、さまざまな現象が生じていました。
私がおもしろいと感じるのは、自己の考えを論理的に主張する人々が広汎に出現したことです。
江戸時代、山の所有権や境界をめぐる紛争が頻発しました。
山論と言います。
裁判で争われることもありました。
長期の裁判になることも少なくありませんでした。
そこには甲論乙駁の論理の世界があり、それに関与したのは一般人でした。
現代人が見ても新鮮さを持っています。
江戸時代の日本には、自己の考えを主張する文化があったように思えます。
もし、江戸時代の日本に独自の精神文化があったとすれば、荻生徂徠の影響に注目すべきでしょう。
江戸時代は朱子学の時代ではありませんでした。
中国や朝鮮には科挙(官吏の登用試験)がありました。
試験には正解が必要です。
正解は朱子学の中にあり、正解を学ぶ「試験勉強」が盛んに行われました。
科挙のなかった日本では朱子学は普及しませんでした。
「試験勉強」のような学習はおもしろくなかったからです。
日本で流行ったのは荻生徂徠の学問です。
荻生徂徠の学問は、研究的・論争的・探求的学風でした。
江戸時代の学者の多くは、多かれ少なかれ徂徠学の影響を受けました。
荻生徂徠を通して、江戸時代の日本には論理で決着を付ける文化が浸透しました。
それは唯々諾々と服従する封建時代人のイメージとはかけ離れています。

万機公論に決すべし


明治政府の最初の施政方針は、五箇条の御誓文です。
その第1条には「万機公論に決すべし」と書かれています。
明治維新は欧米の市民革命とは異なる性格を有しています。
しかし、この「万機公論に決すべし」は、明治維新の市民革命【的】な性格を示しています。
市民革命は、【国王による意志決定】方式の否定でした。
【国王による意志決定】に代わるものが【議会による意志決定】でした。
五箇条の御誓文には、【議会による意志決定】を彷彿とさせる文言が唐突に出てくるのです。
いや、唐突にではなく、それは自然に出てきたのかもしれません。
江戸時代の日本は、絶対権力者による意志決定の社会ではありませんでした。
江戸時代の日本には論理で決着を付ける文化が浸透していました。
その延長線上に、「万機公論に決すべし」があるように思えます。
明治の思想家福澤諭吉は、独立自尊を唱えます。
福澤は欧米人の中に独立自尊の精神を発見したのですが、
実は欧米人【を通して】独立自尊の精神を発見したのではないかと思えます。
福澤も論理で決着を付ける文化の中で育った人です。
奴隷の文化の中で育った人ではありません。
だからこそ、独立自尊の精神を発見できたのではないかと思えるのです。

滅私奉公への堕落


気骨のある明治人と言われることがあります。
日本人は近代のある時期まで、独立自尊の近代人に向かって進歩していたように思えます。
しかし、一方でアンチ独立自尊の思想も成長していきます。
楠正成は忠君の人として戦前の教科書で頻繁に取り上げられました。
幕末から始まる楠フィクションを福澤は「楠公権助論」として批判したことがありました。
昭和戦前期に入ると、楠正成賛美は極に達します。
楠正成は滅私奉公のモデルとして祭り上げられました。

滅私奉公は『戦国策』中の言葉のようですが、
楠フィクションを彩る言葉として使用されました。
荻生徂徠に始まる日本の誇るべき文化は、
偏狭な愛国主義イデオロギーによって窒息させられたのです。


内なる滅私奉公


滅私奉公は戦争遂行の標語でした。
戦後、滅私奉公は死語となります。
しかし、はたして日本人は滅私奉公のメンタリティから脱却できたのでしょうか?
「愛する○○と私」の関係を見て見ましょう。
戦前の滅私奉公で「公」は天皇や国家でした。
愛する天皇(国家)のためには私を殺して従う、
これが滅私奉公でした。
現在を見て見ます。
日本で政党と支持者の関係は、
右も左も余り変わりません。
日本では政党の政策が変わっても支持者は変わりません。
政党の政策が変わると、支持者の考えが変わるからです。
「愛する政党と私」の関係で、政党(公)が優先され私が従属してしまうからです。
政党を会社や団体の組織に置き換えても同じような関係が見て取れます。
「愛する彼(彼女)と私」を見て見ましょう。
1969年、奥村チヨの歌「恋の奴隷」がヒットしました。
「あなた好みの、あなた好みの女になりたい」が繰り返されます。
さすがに現在、このような歌詞の歌が作られることはないでしょう。
しかし、この歌詞は現在でも続く日本人の恋愛感情の一側面を表しているように思えます。
彼や彼女(公)が優先され私が従属してしまう関係です。
彼や彼女を個人と個人の一般的な人間関係に置き換えても同じような関係が見て取れます。
日本でピルが解禁されて15年が経ちます。
15年経ちますがピルはメジャーなわけではありません。
そのような中で、熱烈なピルのファンが生まれました。
つまり、「愛するピルと私」の関係ができています。
ピルは完全な薬ではありません。
メリットもあれば、デメリットもあります。
しかし、もしかするとデメリットに目をつぶる恋の奴隷の心理が働くかもしれません。
もしそうであるなら、偏狭な愛国主義者が誇るべき文化的伝統を押し殺したのと同様に、
熱烈なピルファンはピルを押しつぶしてしまうかもしれません。

自立的ピルユーザーであれ


ピルがあって「私」があるのではありません。
「私」があってピルがあるのです。
ピルには長所もあれば欠点もあります。
欠点に目をつぶってはいけません。
私は15年前、「ピルは頭で飲む薬」と書きました。
この考えは最初にピルと出会ったときからずっと変わっていません。
日本バンザーイを叫ぶ人が愛国者でしょうか?
違います。
日本をよりよい国にしていこうとする人が愛国者です。
ピルについても同じです。
変な言い方ですが、私はピルを愛しています。
だから、ピルの欠点も率直に語り、
私たちにとってもっといいピルにしていきたいのです。
自立的ピルユーザーがこの国のピルの歴史を作る、
そんな思いでサイト名を「ピルとのつきあい方」にしました。
ピルとつきあうことは、内なる滅私奉公から脱却することでもあると思うのですが。

2013年7月20日土曜日

「日本を取り戻す」について考える

参議院選挙の投票日は明日です。
この参議院選挙で、与党自民党は「日本を取り戻す」をキャッチフレーズとしています。
無思想で無教養な広告代理店が考えたキャッチフレーズなのでしょう。
もともと中身のないキャッチフレーズの中身をあれこれ詮索することが流行っているようですが、
それは広告代理店の思う壺です。
選挙のキャッチフレーズとしての「日本を取り戻す」ではなく、
「日本を取り戻す」の言葉本来の意味について考えてみることにします。

「日本を取り戻す」の元祖は、本居宣長でしょう。
国学の流れの中から国粋主義、右翼が生まれてきます。
そのため、国学や本居宣長は保守主義と誤解されることがあります。
しかし、本居宣長における「日本を取り戻す」は、
民族的抵抗思想とみなすことができます。
宣長が発見したものは、日本人の心性に染みついた唐心(からごころ)でした。
日本は長らく中国文化圏の一端に位置してきたのですから、
中国文化が支配的思想になっていました。
その支配的思想からの独立を模索したのが、本居の思想でしょう。
本居において「日本を取り戻す」は、支配的思想に対する抵抗思想でした。

抵抗思想としての「日本を取り戻す」と同様な思想は日本以外でも見られます。
近代中国の興中会・光復会・華興会などは、「中国を取り戻す」でありましたし、
朝鮮祖国復光会は「朝鮮を取り戻す」でした。
勃興期のナチスも「ドイツを取り戻す」と主張しました。
ベルサイユ条約下のドイツの状況を考えればナチスの主張も含めて、
「○○を取り戻す」は抵抗思想と見なすことができます。

「○○を取り戻す」は民俗(国家)が抑圧状態に置かれている条件下で、
抵抗思想として機能します。
現在の日本は外国の抑圧下にあるのでしょうか。
憲法が60年前にアメリカによって強制されたものであったとしても、
現在の日本がアメリカの抑圧下にあるとは言えません。

「日本を取り戻す」は本来、弱者の抵抗思想であり、
明確に強者が意識されていなければなりません。
ところが支配政党である自民党が「日本を取り戻す」と言う時、
どのような支配から「日本を取り戻す」のか全く明瞭にできません。
支配政党が「日本を取り戻す」と言うことに、滑稽さを感じます。

「○○を取り戻す」は本来抵抗思想なのですが、
同時に抑圧思想に転化する危険を内包しています。
民族(国家)主義は普遍を圧殺する論理にも転化するのです。
有り体に言えば、外国はどうであろうと日本は日本のやり方がある、
と言い始めるのです。

当サイト、当ブログはピルをテーマにしています。
ピルにも日本独特のやり方があるようです。
1999年まで日本だけに避妊効能を持たないピルがありました。
やっと解禁になったのもつかの間、
またヤーズやルナベルという避妊効能を持たないピルを作り出してしまいました。
「日本を取り戻す」なのでしょう。

女性の願いは国によって異なることはない、普遍な願いと考えています。
しかし私から見ると、日本の状況はあまりに特殊です。
だから、できるだけ海外の情報を伝えようと努めています。
「日本のピルを取り戻す」と考える人々にとって、
普遍は否定されるべき事のようです。


ほんとうに必要なのは、「日本を取り戻す」ではなく、
「人間を取り戻す」ではないかと思います。

2013年3月15日金曜日

「五木の子守唄」考


五木の子守唄はよく知られた伝承歌です。
五木の子守唄が掛け合い歌であることは、すでに指摘されています。しかし、現在歌われている五木の子守歌は、掛け合いであったことを無視して、一つのつぶやきのように扱われています。そのため、悲しい少女達のニヒルで絶望的な歌との解釈が広く流布しています。この五木の子守歌を平板なつぶやきから、本来の掛け合い歌に復元して再解釈してみると、彼女たちの豊かな共感の世界が見えてくるように思われます。

まず、この歌の成り立ちについて。
この歌の成り立ちを書こうと思ったのですが、
それについては非常によくまとめられているブログがありました。
kemukemuさんのブログ「五木の子守唄」です。
このブログに書かれていることを知らないと、
五木の子守唄は理解できません。
五木の子守唄は、基本的には掛け合い歌です。
掛け合い歌なので遊び的な要素が入ることがあったでしょう。
大袈裟に言ってみたり、茶化してみたりの要素が含まれています。
それでは、今に伝わっている五木の子守唄は、
戯れ言なのでしょうか?
そうとも言えないでしょう。
即興の掛け合いが繰り返される中で、
共感できる"名句"がセレクトされ、伝承されたのでしょう。
「五木の子守唄」は、いわば子守少女達の共同体が共有していた感性の産物と見ることができるでしょう。



この歌詞について少し解説してみます。
学齢に達すると皆が小学校に通うようになるのは、
今から100年少しほど前からです。
それ以前、明治の初め頃とか江戸時代とかは、
貧しい家の子どもは子守奉公に出されました。
今で言えば小学生の年齢の子どもが子守係として、
お金持ちの家に雇われたのです。


 
   (一)
   おどま盆ぎり盆ぎり 
   盆から先ゃおらんと


   【返し】
   盆が早よ来りゃ 早よ戻る

【一般的な解釈例】
子守り奉公もお盆で年季が明け、もうこの家にいないですむ。お盆が早く来れば、父母のいる故郷に早く戻れるのに……。二木紘三のうた物語
『私は、盆までの約束で、この家へ奉公に来ているのです。盆が来りや、家に戻れれるのです。早く盆よ、来てくれ』と家へ帰れる日を待つ気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


1番の歌詞前半ですが、
お盆までで年季の明ける少女はうれしくて仕方がありません。
盆が来るのを心待ちにしています。
そして「お盆が来ればバイバイだよ」歌います。

返し歌の部分ですが上で紹介したブログが、
「戻る」について当を得た解釈を示しています。
「戻る」についてはその解釈をお借りします。
お盆が年季のことはまれでした。
他の子守少女達はお盆が来ても年季とはなりません。
盆が来ても年季明けでない別の少女たちは、
年季明け少女のウキウキする気持ちは、
痛いほどよく分かります。
その気持ちを思うとこれまであれほど待ち遠しかった盆の里帰りが、
急につまらなく感じられます。
そこで、
「お盆が早く来ても奉公先に早く戻るだけでつまらない」
と居残り少女達の気持ちが歌われます。
それは決してねたみの気持ちなどではありません。
年季明けを迎えた仲間に対する彼女たちでしかかけることのできない祝福の言葉でした。
この短いやり取りの中に、子守奉公から解放される日を待ち望む彼女たち全員の気持ちが凝縮されています。


 
   (二)

   おどまくぅわんじんくぅわんじん
   あん人たちゃ良か衆(し)


   【返し】
   良か衆(しゃ)良か帯 良か着物(きもん)


【一般的な解釈例】
私たちの身なりは乞食と同じだ。あの人たちはお金持ちだから、上等の帯や着物を身につけている。 二木紘三のうた物語
『自分は、身分の低い勧進生まれで貧乏な娘です。それに比べてあの人達はよか衆の家に生まれたもんだから、よい着物を着て立派な帯を締めて、幸せだなあ』と羨む気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


くぅわんじん(勧進)は物乞いを意味します。
ある子守少女が雇い主のお金持ちに対比させて、
「自分は物乞いだよ」と歌います。
それに対して、別の少女が、
「そうだね、雇い主のお金持ちは良い帯をしてよい着物を着てるよね」
と応じます。
雇い主にも同じ年頃の少女がいたかもしれません。
衣装に目が向くのは、いかにも少女らしいところです。

このやり取りで注意したいのは、
「自分は物乞いだよ」と述べている点です。
自分を卑下し雇い主やその家族を羨んでいるとも取れる歌詞です。
しかし、もし自分を卑下していたら、
「自分は物乞いだ」とは言わなかったでしょう。
人間としてのプライドをしっかり持っていたからこそ、
「自分は物乞いだ」と言えたのではないでしょうか。
それはこの子守唄全てに通じるテーマでもあります。
この子守少女たちは、人間の尊厳とか平等性とか権利とかプライドとか、
そんなしゃれた語彙は持っていません。
彼女は言います「私は物乞いのようなものだ」と。
「私は物乞いのようなものだ」
「私は物乞いのようなものだ」
「私は物乞いのようなものだ」
彼女の言葉はそこで終わっています。
しかし、ここで彼女の言いたかったことは、
「私の身なりは物乞いのようなものだけど、心は皆一人の人間だよ」
ではなかったでしょうか。
その思いは、掛け合い相手の少女も同じでした。
しかし、歌い元の少女への共感を示す言葉が見つかりません。
掛け合い相手の少女は精一杯の共感をこめて、
「そうだね、雇い主のお金持ちは身なりは良い帯をしてよい着物を着てるよね」
と応じます。
この解釈は余りにも主観的かもしれません。
しかし、私にはどうしてもそう思えるのです。
虐げられた人々は時に自分を卑下するような言葉を口にしますが、
それは決して真意ではありません。
「どうせ私は馬鹿ですよ」が、
「私は馬鹿ではありません」を意味するのと同じです。


 
   (三)

   おどんが打っ死(ち)んだちゅうて
   誰(だい)が泣(にゃ)てくりゅきゃ


   
   【返し】
   裏の松山 蝉が鳴く


 
   (五)

   おどが打っ死(うっちん)だば
   道端(みちばちゃ)いけろ


   【返し】
   通る人ごち 花あぎゅう


【一般的な解釈例】
私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう。裏の松山で蝉がなくだけだろう。
私が死んだら、人通りのある道の端に埋めてください。通る人たちがそれぞれに花を供えてくれるだろうから。二木紘三のうた物語

『私が死んだって、誰も泣いてはくれない。裏の山で、蝉が鳴いてくれるぐらいのものだ』という諦めの気持ちを言ったもの。
『私たち、身分の低い娘が死んだとて、墓どころか裏山に捨てられ、誰もかえり
見てくれないでしょう』という気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


ある子守少女が歌います。
「自分が死んでも誰が泣いてくれてくれようか、誰も泣いてくれない」と。
5番の歌詞、「自分が死んだら、道ばたに埋めろ」はもっと強烈です。
ゴミのように道ばたに埋めろと歌っています。
年端のいかない少女の歌です。
胸が痛みます。

ただ少女は本当に死を意識していたわけではないでしょう。
寂しい心の内を理解し合える仲間なので、
少し大袈裟に「死んでも」とか「死んだら・・・」と歌い掛けているのです。
寂しい心の内をわかり合える仲間だとわかっているから、
大袈裟に言ってみたり悪態めいた言い方をしたりしているのです。

歌い元少女の寂しい気持ちは、
掛け合い相手の少女にも痛いほどよくわかります。
しかし、歌い元の少女に共感を示す応答をすれば、
お互いが惨めになってしまいます。
そこで「裏の松山で蝉が鳴くよ」とか、
「通行人が花をあげるんだからその方がいいんじゃない?」
と茶化したり、突き放したりの応答をしています。
それは同じ境遇の者同士だからできる、
心の通い合った仲間だからできる慰め合いの言葉です。

なお、「裏の松山」はおそらく修辞でしょう。6番の歌詞の「つんつん椿」のつんつんも同じく修辞でしょう。
松林には蝉はいません。「裏の松山」という架空の修辞は、「蝉が鳴く」というリアルな言説をフィクション化する働きをしています。
「つんつん」は語調を整えるとともに、やはりフィクション化の働きをしています。
彼女たちは掛け合いで、身につまされるような現実を語っています。
息の詰まるような話しであったからこそ、その中に修辞を紛れ込ませることを覚えたのでしょう。


 
   (四)

   蝉じゃごんせん
   妹でござる


   【返し】
   妹泣くなよ 気にかかる


【一般的な解釈例】
泣くのは蝉ではなくて、妹だ。妹よ、泣かないでおくれ。お前のことが心配でならないから。
二木紘三のうた物語
『蝉だけじゃなかった。肉親の妹も、私が死んだら、こころから泣いて悲しんでくれるでしょう』という諦めの気持ちを言ったもの。
東京人権啓発企業連絡会

「死んだら・・・」「蝉が・・・」は、
やや現実を離れた掛け合いです。
歌い元の少女は、今度は現実にぐっと引き寄せて、
「泣くのは蝉じゃない、妹だ」と歌います。
架空の話から現実の話にがらりと転換しています。

掛け合い相手は、引き戻された現実の世界にたじろぎ、
「妹泣くなよ 気にかかる」と率直に真情を吐露しています。
寂しさや孤立感に対して「誰も泣かない、道に埋めろ」と強がりを言ってみても、
いざ具体的な家族が想起される時、もう強がりでは語れなくなっています。
「妹泣くなよ」は、自分に対して「泣くなよ」と言い聞かせる言葉なのでしょう。

なお、この妹は子守少女仲間を指していた可能性もあります。
少女仲間の間で、先輩後輩を姉さん妹と呼ぶこともあったようです。
そうすると、「蝉が鳴く」と返した後輩に「泣くのはおまえだよ」と切り返しているようにも思えます。
歌い元がそのような意味で妹と言い、掛け合い相手もその意味を分かっていたとしても、返しは実際の妹の話しとして返しています。


 
   (六)
   花は何の花
   つんつん椿


   【返し】
   水は天から 貰い水


【一般的な解釈例】
供えてもらう花は椿がいいな。閼伽水(あかみず)をもって墓参してくれる人がいなくても、雨が閼伽水の代わりになる。二木紘三のうた物語


歌い元の少女は
「自分の墓に手向けてくれる花は一体何の花何なんだろう?
そこらかしこにある椿の花?」
と歌いかけます。
おそらく椿の花であることにそれほどの意味はなかったでしょう。
少女が思いついた花がたまたま椿でした。

掛け合い相手の少女は返歌に窮します。
現在伝えられているのは「水は天から 貰い水」だけですが、
数多くの返歌が考えられ歌われていたのでしょう。
その中で自然にセレクトされ残ったのが「水は天から 貰い水」でした。
子守少女達がこのフレーズを編み出し、セレクトしたのはなぜでしょう。
それは想像するしかありません。
草木が生きていくのにも、人間が生きていくのにも、
水は必要です。
そしてその水は天から等しくもらっているものだ、との感覚。
彼女たちが共有していたこの感覚が、
このフレーズをセレクトさせたのではないかと私は想像します。
彼女たちは厳しい格差社会に生きていました。
彼女たちは平等という言葉は知っていなかったかもしれませんが、
人間の本来的平等性の感覚は持っていたのではないかと考えます。
その彼女たちがセレクトしたのは、
「水は天から 貰い水」でした。


五木の子守唄の歌詞の意味をざっと考えてきました。
五木の子守唄は見方によれば、
子守少女達が境遇の厳しさを歌い自らを卑下している歌です。
言い換えると、かわいそうな子守少女達が作った子守唄です。
実は、私も昔そのように理解していました。
そのころ、私は真実は言葉で語られると考えていました。
ところが、このように考えていると見えない真実があることに
次第に気づくようになりました。
ヒスパニックの貧しい少女達と接している友人は、
彼女たちは自分より真実を知っている、
だから彼女たちに学んでいるのだと言ったことがあります。
自由という言葉が生まれる前に自由を求める人がいました。
平和という言葉が生まれる前に平和を求める人がいました。
平等という言葉が生まれる前に平等を求める人がいました。
自由や平和や平等と言う言葉をよく知っている人は、
本当に自由を求めている人に気づかず、
本当に平和を求めている人に気づかず、
本当に平等を求めている人に気づかないかもしれません。
なぜなら、本当に自由や平和や平等を願った人達は言葉を持っていません。
私は五木の子守唄を編み出した少女達が、
格差社会をどれほど恨んでいたか、
人間の尊厳をどれほど希求していたか、
と考えました。
そして決して自らを卑下する人でなく、
彼らなりの方法で境遇に雄々しく立ち向かった人たちであると考えました。
私は五木の子守歌を生み出した少女達を憐れむ気持ちにはなれません。
そのような気持ちは彼女たちに失礼です。
彼女たちこそ、真実を知る人でした。
私達は彼女たちから多くのことを学ぶことができると考えています。

「ピルとその周辺」のブログがなぜ「Home on the Range」を「五木の子守唄」を取り上げるのか、不思議に思われている方も多いでしょう。
その種明かしにもう一歩の所まで来ました。

2013年3月10日日曜日

My view of "Home on the Range" as a peace song

Beccy Tanner wrote in the article "Historic Kansas cabin an elemental part of folk-song history" :
Tiny colonies of settlers sprung up across the state , carving chunks out the prairie into farms and towns as American Indians were displaced. And although there is some question whether Higley himself wrote this verse, which is part of the state song:
The Red man was pressed from this part of the west,
He's likely no more to return,
To the banks of the Red River where seldom if ever
Their flickering campfires burn.
That verse, Murphey said, "shows nostalgic sadness at the disappearing of Native Americans at a time when the Indian Wars were still going on, revealing that settlers were not always at odds with their Native American neighbors, and that many pioneers felt fondness for some Indians."


As Tanner points out the verse is different from the original.
And it seems to differ from Higley's thought.
Although the verse may not support Murphey's view clearly,
I agree his conclusions by some reasons.
Brewster Higley also might be one of such pioneers.
I would like to interpret the song as the thought of an idealist.

The strange phrase of  the song Home on the Range is "Where the Deer and the Antelope play".
You know any antelope did not exist in the Americas(see wikipedia).
Therefor Higley had never seen the scene "the Deer and the Antelope play". *1
Antelope is alike deer.
He described that two similar animals played together.
What does this mean ?
Higley lived in the time when the white pioneers and the American Indians were in severe conflict.
I would like to think he hoped the amicable relationship of each other.
The deer would be the symbol of the American Indians,
and the antelope would be the symbol of the white pioneers coming here later.
"The Deer and the Antelope play" seems to mean the peaceful relations on good terms between them.
He seemed to express his hope for peace in the phrase "Where the Deer and the Antelope play".

"Where seldom is heard a discouraging word" follows that.
But there is not any connection with the former phrase.
What is the meaning of "discouraging word" ? *2
The mass slaughters were repeated for the vengeful thought by each other in the Indian War.
When he described "give me a home", it meant the peaceful home that was not yet realized.
And therefor he wished the peaceful home.
In the home such he dreamed, any vengeful thought or hate speaking would disappear.
"Discouraging word" might mean the word of vengeful thought, which discouraged the peace. *3

Higley described in the 3rd verse
 "On the banks of the Beaver, where seldom if ever,
Any poisonous herbage doth grow".
The poisonous herbage seemed to suggest the war.
The poem was described in 1873 several years after the Battles of  Beaver Creek in August 1867 and October 1868(see wikipedia).
The Beaver river is not so near from Smith country he lived.
It cannot be the true poisonous herbage that Higley described to grow on the banks of the Beaver.
He seemed to describe his hope not to occur the battle again in the phrase.

He described "If their glory exceed that of ours".
What is "glory of ours"?
One of the answers would be the success of settling.
The other answer would be the making peace between the white man and the red man.
No one can know the Higley's thought.
I would like to point out the possibility of the latter. 

Whoes "home on the Range"?
I think:
the home was not only for him, but for both the white pioneers and the American Indians.
The home in his thought had to be peaceful paradise where they lived on good terms.
The slaughters do not match well with the bright nature there.
So he described the nature of the home as something bright.

Many American might feel this song as that of a pioneer's spirit.
I a Japanese appreciate this song as that for the hope of peace,
and I love this song.

*1  Tom Roush wrote: It is known that there are no true antelope in North America. However, the Pronghorn has been called an antelope since the first Europeans arrived.
http://www.youtube.com/watch?v=ArgMK2kAjzw
discussion in Straight Dope Message Board

Even if the pronghorn lived in Kansas State, was there an inevitability to describe the deer and the antelope in pairs ?
*2  Russell K. Hickman wrote:
The words of the chorus “Where seldom is heard a discouraging word” – (in some versions “Where never is heard a discouraging word”) may have been inspired by Higley’s freedom from domestic discord, which possibly he achieved by his removal from Indiana to Kansas.
Russell K. Hickman,"The Historical Background of “Home on the Range”
http://www.dunelady.com/laporte/histories/Home_on_the_Range.html
*3  Russell K. Hickman wrote:
A Mr. Reese --who is one f the oldest pioneers in the section stated --that the occasion of their meeting was an indignation meeting against the Indians,
Russell K. Hickman,"The Historical Background of “Home on the Range”
http://www.dunelady.com/laporte/histories/Home_on_the_Range.html

*****************************************
related:
A criticism on the translated versions of "Home on the Range" (in Japanese)

2013年3月6日水曜日

「峠の我が家」の原詩翻訳=草原のふるさと

遊びで「峠の我が家」の直訳版を作ってみました。

まず、原詩Home on the Rangeと日本語の対訳です。
原意を損なわない範囲でできるだけ忠実に訳していますが、
訳が詩となるように直訳となっていない部分もあります。




草原のふるさと(対訳版)
詩 ブリュースター・ヒグリー
曲 ダニエル・E・ケリー
翻訳 ruriko
1 バァファローの群れるふるさとを我に与え給え
そこでは鹿と羚羊が戯れ
後ろ向きな語りなど聞こえないし
いつの日も空は曇らない

(コーラス)
ふるさとよ、ふるさとよ
そこでは鹿と羚羊が戯れ
後ろ向きな語りなど聞こえないし
いつの日も空に雲は見えない
Oh, give me a home where the Buffalo roam
Where the Deer and the Antelope play;
Where seldom is heard a discouraging word,
And the sky is not cloudy all day

.(Chorus)
A home! A home!
Where the Deer and the Antelope play,
Where seldom is heard a discouraging word,
And the sky is not clouded all day.
2 輝くダイヤモンド砂の地を我に与え給え
(砂は)きらめく小川から光を放つ
川辺には白鳥が優雅に舞い
あたかも天国の夢の天使のようだ
(コーラス繰り返し)
Oh! give me a land where the bright diamond sand
Throws its light from the glittering streams,
Where glideth along the graceful white swan,
Like the maid in her heavenly dreams.
(Chorus)
3 ソロモン川の風を我に与え給え
そこでは泉湧き出で命の流れとなる
ビーバー川の土手には万が一にも
いかなる毒草も茂らない
(コーラス繰り返し)
Oh! give me a gale of the Solomon vale,
Where the life streams with buoyancy flow;
On the banks of the Beaver, where seldom if ever,
Any poisonous herbage doth grow.
(Chorus)
4 幾たびぞ、ここに立ちつくせしか
星々の瞬く光で天輝く夜に
そを仰ぎつ尋ねしことあり
その壮観われらのそれを越ゆるやと
(コーラス繰り返し)
How often at night, when the heavens were bright,
With the light of the twinkling stars
Have I stood here amazed, and asked as I gazed,
If their glory exceed that of ours.
(Chorus)
5 この輝ける我らが地の野の花をこよなく愛す
荒々しいダイシャクシギの鋭い鳴き声をこよなく愛す
絶壁、白い巨岩、そして羚羊の群
その草を食む山々は緑深い
(コーラス繰り返し)
I love the wild flowers in this bright land of ours,
I love the wild curlew's shrill scream;
The bluffs and white rocks, and antelope flocks
That graze on the mountains so green.
(Chorus)
6 空気は清らかでそよ風はすばらしい
そよ風は更に爽やかで軽やか
この平原こそ変わることのない我がふるさと
紺碧の空よ永遠なれ
(コーラス繰り返し)
The air is so pure and the breezes so fine,
The zephyrs so balmy and light,
That I would not exchange my home here to range
Forever in azures so bright.
(Chorus)

*********************************************************

上記のヒグリーの原詩は日本でさまざまに訳された。

※「峠の我が家」日本語訳詞一覧
訳詞HOME家族性時空冒頭備考
Higleyふるさと×現在 1872 Oh, give me このページ上
佐伯孝夫×追憶1940なつかしや歌詞ABC
津川主一×追憶1962?水牛は群れ「牧場のわが家」?
このページ下部コメント欄
中山知子 追憶/現在 1966 ふきわたる みんなの歌 歌詞
岩谷時子 追憶 ? あの山を listen
久野静夫追憶?空青く二木紘三のうた物語
龍田和夫追憶?空は青く二木紘三のうた物語
藪田義雄追憶?1969?角笛は二木紘三のうた物語 映画「女の市場」
教科書?追憶1965?峠には緑しげり二木コメント欄
高崎邦祐ふるさと?×追憶?春来れば歌詞GET
井上 勝 ? ? ? ? ? 004-3537-6
山田 若穂 ? ? ? ? ? 021-6961-4
音教社編集部 ? ? ? ? ? 021-6994-1
島田 磬也 ? ? ? ? ? 027-3172-0
倉橋 たかし ? ? ? ? ? 053-5441-2お帰りの歌
梶山 三郎 ? ? ? ? ? 055-1149-6
小林 純一 × 追憶 ? 花咲き 懐かしの愛唱歌集 ダークダックス
白木 達郎 ? ? ? ? ? 058-8189-7
室生 恵 ? ? ? ? ? 066-8108-5
なるけ みちこ ? ? ? ? ? 154-3704-3
水島 哲 ? ? ? ? ? 177-0442-1
rurikoふるさと×現在2013果てしなきこのページ下
(HOME→訳が家かふるさとかの違い、家族性→「温かい家族」の有無、時空→追憶なのか現在なのか、備考→JASRAC作品コード。高崎詩はアリゾナバージョン?)
不十分さの残る一覧なので、情報歓迎します。


(要約)日本では1940年の佐伯孝夫訳「峠の我が家」で作られたイメージが、戦後のさまざまな訳詞に影響を与えている。

佐伯孝夫訳は、懐かしのふるさとを追憶する趣向で、
文部省唱歌「ふるさと」と非常によく似ています。

峠の我が家
  佐伯孝夫訳詞
1.懐かしや 峠の家
  木々のみどり 深く
  ほがらかに 人は語り
  青き空を 仰ぐ
    ああ わが家
    帰りゆく 日あらば
    谷水に のど潤し
    けもの追いて 暮さん
2.空蒼き 峠の家
  花は赤く ほのか
  子供等の 古きうたに
  今日も山は 暮るる
    (繰り返し)




佐伯訳の「帰りゆく日あらば」は、
「ふるさと」の「いつの日にか帰らん」の刷り込みのようにも見えます。
佐伯訳は原詩に対して、①追憶の詩とする、②homeをふるさとではなく家とする、③家の場所を峠とする、の3点の改変を行いました。
①の追憶の詩とする改変は、後の全ての訳詞に踏襲されています。
②の家の詩とする点も基本的に踏襲されています。ただ、そうすると自然を歌った原詩と齟齬するため「牧場こそ わが家」(中山詩)のような工夫がなされました。
③の峠はタイトルとして受け継がれますが、歌詞内容では必ずしも受け継がれていません。雄大な自然描写と峠のイメージがマッチしなくなっているように見られます。
以上、佐伯訳以後の訳詞は佐伯訳を基本的には踏襲しながらも、
原詩の自然描写をより受け入れようとしているように思われます。
しかし、「峠の我が家」のタイトルを踏襲する限り、
それは不徹底に終わります。
タイトルから来る制約性を逆に発展性に変えたのが、
「家」でした。
佐伯訳で家はほぼ建物としての家でしたが、
後の訳では人の生活の場としての家に意味を膨らませていきました。

*********************************************************

(要約)原詩にはほのぼの家族のイメージは全くなく、自然賛歌である。自然賛歌としての新訳詞を作成した。

佐伯孝夫訳のタイトル「峠の我が家」が踏襲されていることが象徴しているように、
後の訳は佐伯訳の大枠内における洗練化と言えるでしょう。
それはそれで意味のあることと思います。
しかし、一方で佐伯訳の3つの改変により、
原詩の持つ詩情で伝えられなくなった側面のあることも事実ではないでしょうか。
原詩Home on the Rangeは、徹底して自然賛歌です。
いったん「峠の我が家」の枠を外して、原詩に立ち返ることがあってもよいかと思います。
そこで、原詩を活かした歌詞を作ってみました。
曲名は「大草原我がふるさと(西部のふるさと)」としました。
原詩が「ひかり」を隠れたモチーフにしていることも、
訳詞に取り入れました。

大草原我がふるさと
詩 ブリュースター・ヒグリー
曲 ダニエル・E・ケリー
訳詞 ruriko
1 果てしなき 大草原
  戯れる 子鹿よ
  牛の群 のどやかに
  時ながる 大地よ 
  あー ふるさと
  光満つ ふるさと
  草輝き いのちあふる
  みどりなす ふるさと
2 湧きいづる 泉の水
  かがやきて 流れゆく
  水鳥は 舞い遊ぶよ
  幸多し 水辺よ
  あー ふるさと
  光満つ ふるさと
  水輝き いのちあふる
  うるわしき ふるさと
3 草原に そよふく風
  清らかに みちみち
  はるかなる 地平線
  透き通る 青空
  あー ふるさと
  光満つ ふるさと
  風輝き いのちあふる
  きよらけき ふるさと
4 ふるさとに 暮らせる人
  穏やかに 希望もち
  天にみつ 星の輝き
  仰ぎ見る 夜空よ
  あー ふるさと
  光満つ ふるさと
  星輝き いのちあふる
  いとしきや ふるさと
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 



(要約)原詩を西部開拓賛歌として捉えると、先住民抑圧の歴史が見落とされることになる。

※なお、この歌の背景には白人による先住民族抑圧の歴史があります。
原詩の書かれた1870年代のカンザス州は、「西部開拓」の前線地域です。
「Home on the Range」は白人入植者がこの地を自分たちの「ふるさと」にする、
と宣言している歌詞とも見ることができます。
原詩でgive meが繰り返されていますが、
白人から見れば「神より賜わりしもの」ですが、
先住民から見れば白人の略奪にほかなりません。
これから「Homeふるさと」にしようとしている入植地について、
すばらしい土地だから我が家を立てようと述べていると、
見ることもできます。
このような背景がこの歌にはあることを知っておく必要があるでしょう。
そのことを知った上でも、この歌の価値は損なわれません。
この歌は見方によれば上に述べたような「入植」「開拓」の歌と理解できます。
家や人に焦点化する佐伯孝夫訳「峠の我が家」やそれを踏襲する訳は、
極論すればこの系譜に属します。
他面でこの歌は自然賛歌と理解できます。
「Home on the Range」は、ふるさとを懐かしむ歌では決してありませんし、
まして楽しい「峠の我が家」の歌でもありません。
開拓者個人の自然に対す感情の表現としてこの歌を捉え直し、
その観点から訳詞したのが「大草原我がふるさと」です。


(要約)原詩の「鹿とアンテロープが遊ぶふるさと」は、先住民と白人が共生するふるさとの理想を述べたものと解釈できる。

※英語の原詩では、
home where the deer and the antelope play
が繰り返されます。
このフレーズはアメリカ人にも意味不明で奇妙な1節になっています。
アンテロープantelopeは羚羊と訳される鹿に似た動物ですが、
動物学的には牛に近い種です。
旧大陸には広く分布しますが、新大陸にはいない種です。
ヨーロッパ人にとってもなじみの薄い動物です。
原詩では「鹿とアンテロープが遊ぶhome(ふるさと/家)」と表現されます。
唐突にアンテロープが登場しているのです。
「鹿とアンテロープが遊ぶhome(ふるさと/家)」の意味は何なのでしょうか。
この問題を考える際に、重要なのは時代背景です。
1870年代のカンザスでは、白人と先住民の陰惨な戦いが繰り広げられていました。
ヒグリーはこの戦いの勝利者側の人間です。
原詩Home on the Rangeは、白人の勝利宣言の歌とも読めると書きました。
しかし、私は少し異なる理解をしています。
その鍵がこの「鹿とアンテロープが遊ぶhome(ふるさと/家)」です。
鹿はアメリカ大陸に野生していました。
ヒグリーの目の前には現実に鹿がいました。
彼は先住民を鹿になぞらえ、
旧大陸からやってきた白人をアンテロープになぞらえたのではないでしょうか。
このように理解すると、
「鹿とアンテロープが遊ぶhome(ふるさと/家)」は、
先住民と白人が共生するhome(ふるさと/家)の意味になります。
私はこのフレーズがそのような意味に思えてなりません。
もしこのように解釈すると、ふるさとの意味も変わってきます。
まずhomeは家ではあり得ません。
homeはふるさとの意味になります。
そのふるさとはたんに白人入植者のhomeふるさとの意味ではなく、
先住民と白人の共通のhomeふるさとの意味になります。
「鹿(先住民)とアンテロープ(白人)が遊ぶふるさと」なのですから、
このように解釈するのが自然です。。
原詩の書かれた1870年代のカンザスは、
まだ戦いのただ中にありました。
戦いのただ中で「共生」を歌った歌と理解すると、
この歌は平和を願う歌だったと見なすことができます。
輝かしい自然に陰惨な戦いは似合わないと訴えているのが、
この歌であると私は理解しています。

(要約)原詩のdiscouraging word云々は、白人と先住民の間の憎しみと復讐の連鎖を断ち切り、陰惨な戦争を終結させようと訴えている。

もう一つ意味のわかりにくい言葉があります。
「鹿とアンテロープが遊ぶふるさと」に続いて、
discouraging wordが語られないと続きます。
直訳すれば落胆の言葉となります。
ただそうすると、これも唐突な感じになってしまいます。
この言葉を私は「憎しみ合いの言葉」と理解しています。
先住民と白人の戦いでは、
憎しみと復讐の連鎖が生じていました。
平和は憎しみの連鎖を断ち切ることによって実現できます。
共生のふるさとでは憎しみ合いの言葉は当然消えることになります。
それを「discouraging wordが語られない」ふるさと、
と表現しているのではないでしょうか。
対訳では「後ろ向きな語りなど聞こえない」と訳し、
歌詞訳では「光満つ いのちあふる ふるさと」と表現しました。
陰惨な世界からの決別を希求する歌であるとの理解に基づきます。


(要約)英語のhomeは居場所と感じる場所であるのに対して、日本語の過去の生活の地を意味する。

※ハウスhouseは家なのですが、ホームhomeはhouseよりずっと多義的です。
英語の辞書には以下のようにあります。
1.   A place where one lives; a residence.
2.   The physical structure within which one lives, such as a house or apartment.
3.   A dwelling place together with the family or social unit that occupies it; a household.
4.   a. An environment offering security and happiness.
      b. A valued place regarded as a refuge or place of origin.
5.   The place, such as a country or town, where one was born or has lived for a long period.
おそらくhomeに一番近い日本語は居場所でしょう。
居場所と感じる場所がhomeで、homeには心理的要素が含まれています。
my old Kentucky home(懐かしきケンタッキーの我が家) のhomeはほぼ家ですが、
このhomeにも微妙に心理的要素が含まれているように思えます。
上記の「5.人が生まれたあるいは長く生活している国や町のような場所」は、
日本語ではふるさとです。
ただhomeは実際の居場所であるだけでなく、居場所と感じる場所まで含まれます。
そのために、homeとふるさと(故郷)の間にはニュアンスの相違が生じます。
故郷はもともと中国語から入ってきた言葉です。
出身地ほどの意味だったと思われます。
現代中国語の故郷は日本語の故郷と同じで、
生まれた地、育った地を意味します。
魯迅の小説「故郷」は、日本語の故郷と同じ意味です。
日本語でも中国語でも、
故郷は過去性を色濃く帯びています。
特に日本では故郷は「古里・故里・ふるさと」であり、
現在の生活の地と対比される過去の生活の地を意味します。
一方、英語のhomeはというと、
やはりいくぶんかは過去性を帯びています。
しかし、日本語の故郷(ふるさと)と較べるとその過去性はずっと薄いように思われます。
エーデルワイスの歌詞にmy home land foreverとあります。
このhome landは過去に生活していた故郷(ふるさと)の国ではなく、
現に生活している自分の国の意味です。
同様に、home townは過去に生活した町であってもよく、
現在生活している町でもよい言葉です。
このように現在性・主観性を持つ「home」と過去性の強い「故郷(ふるさと)」には、
ニュアンスの違いがあります。
homeを日本語の「ふるさと」置き換えると、
現在性がなくなり追憶の対象となりがちです。
それにもかかわらず、敢えてふるさととしたのはある考えによります。
この点については、機会があれば書いてみたいと思います。

ピースソングとしての「草原のふるさと」(英語ページ)要約】
このページの英語版だが、このページとの相違点は、「ビーバー川の土手に毒草は茂らない」がインディアン戦争のビーバー川の戦いを念頭に、不戦を願うフレーズと指摘していることなど。反戦歌として解釈できるとの論旨。

関連記事
聖処女幻想の国(4)「峠の我が家」考
ピースソングとしての「草原のふるさと」 (英語)

参照
インディアン戦争(日本語wikipediaの解説。よくまとまっている。)
『峠のほのぼのわが家』???
峠の我が家 歌詞・MIDI・日本語訳 (対訳。ただしテキストはオリジナルバージョンでない)