2013年8月18日日曜日

オロナインと女の60年

オロナインが発売されたのは1953年のことです。
まる60年たった2012年、「お母さんの手も育つ」篇のCMが放送されました。
お母さんの手はきれいです。



このCMのタイトルは、「お母さんの手も育つ」です。
とても感動的なタイトルだと思いました。
子どもの成長とともに育つ。
それはこの60年の日本で実現したことでした。

オロナインが発売された1953年ころの日本を振り返ってみましょう。
1953年は電気洗濯機の普及が始まる年でもあります。
その間の事情は以下のように記されています。
1950年当時の洗濯は「洗濯板とタライでゴシゴシこすって汚れを落とす」のが一般的で、これは主婦にとっては大変な重労働でした。
  当社の創業者・井植歳男は、「日本の奥さん方は、3年で象一頭分の重さの洗濯物をゴシゴシ洗っている。この重労働を機械がするようになれば、きっと歓迎されるだろう」と、洗濯機事業の社会的意義を語り、1953年(昭和28年)、日本最初の「噴流式洗濯機」を発売。値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近く。しかも汚れ落ちが良くて省電力、角型でムダな設置スペースを取らないなどメリットが多く、爆発的な売上を記録しました。「早い、簡単、便利な洗濯」をもたらしたSW-53は、家事労働を大幅に軽減。発売の翌年7月には月産1万台を突破し、一躍トップシェアに躍り出ました。これによって「洗濯機のサンヨー」という名が全国に広まったのです。

(三洋電機「洗濯機事業50年の歩み」)

上の引用中に洗濯板が出てきます。
洗濯板については青森県立郷土館のサイトに写真入りの説明がありました。
今では洗濯板を知らない人も多いでしょう。
紙おむつとなった現在でも、赤ちゃんが生まれると水道の使用量が跳ね上がります。
紙おむつのなかった当時、毎日毎日おむつの洗濯は欠かせませんでした。
子どもが産まれることは、洗濯に負われる毎日になることでした。
お母さんの手はきれいな手でいられません。
「お母さんの手も育つ」篇のCMの54秒付近に、
「ひび、あかぎれ、きず、しもやけに」とのタイトルが入ります。
一瞬、60周年記念のCMなのかと思いました。

考えてみると、女の生涯は育児と家事労働に追われる人生でした。
お母さんの手はひび、あかぎれ、きず、しもやけの手だったのです。
初期のオロナインの宣伝に起用されたのは浪花千栄子さんです(画像をクリックすると拡大)。
(画像はれとろ看板写真館>大塚系れとろ看板、より)
 
手をまじまじと見てしまいました。
「お母さんの手も育つ」など、夢のまた夢の世界でした。
女の生活はずっとそうだったので、
それに誰も疑問を持たなかったでしょう。
この女の人生が変わり始めるのが60年前頃でした。
洗濯機もオロナインも女の人生を変えたアイテムの一つでしたが、
子ども2人を産み育てる人生モデルは、
根本から女の人生を、
そして家族の形を変えていきます。

女性が担った家事労働は現在とは較べようがありません。
洗濯について書きましたが、そもそも洗濯に使う水は水道水でないことの方が多かったのです。
台所で使う水も、風呂で使う水も、井戸水です。
まず井戸から水をくみ運ぶ仕事がありました。
炊飯器も温水器もありません。
かまどでご飯を炊き、マキで風呂を沸かしていたのです。
衣食住の全てに膨大な家事労働が必要でした。
子どもの数が多ければ多いだけ、家事労働が重くなりました。

産み育てる子どもの数が少なければ、
それだけで家事労働の負担は格段に軽くなります。
子どもの数が少なければ、です。
現代人は子どもの数が少なければと軽く言ってしまいます。
しかし、それは生やさしいことではありませんでした。
子どもの数を少なくするには避妊が必要です。
しかし、当時まだ避妊は悪と思われていました。
また、子どもを多く産んでいたのには理由がありました。
乳幼児の死亡率が高かったので、
「家」の継承のためには多くの子どもが必要だったのです。
そんな生やさしくないことが、
日本では短期間に実現してしまいます。

戦後の日本は外地からの引き上げで内地人口が急増し、
深刻な食糧難が生じていました。
この問題を解決するために取られたのが人口抑制策です。
国家が人口抑制策をとるのは歴史上はじめてのことだったでしょう。
避妊や中絶が認められたのは、人口抑制策の一環でした。
ただ、上にも述べたように多産にはそれなりの背景があったので、
避妊や中絶を認めるだけでは多産を抑制することはできません。
そこで取られたのが、家族計画という国策運動です。
家族計画は現在では単に避妊を意味する言葉です。
しかし、当時の家族計画は「幸せ家族計画」の響きを持っていました。
過重な家事労働を強いられていた女性達は、
家族計画の中に「幸せ家族計画」を感じ取ったのでしょう。

当時の女性達が感じ取った「幸せ家族計画」は漠然としたものだったかもしれません。
しかし、現実に実現した幸せ家族は、
彼女たちが想像したよりももっと幸せ家族だったでしょう。
「お母さんの手も育つ」のCMが描いているのは、
子育てを楽しむお母さんの姿です。
子どもがたくさんいて家事労働に負われていたお母さんは、
子育てを楽しむ余裕などなかったのです。

家族計画運動は母子保健の充実に力を注ぎます。
少子化を推進するためには、高い乳幼児の死亡率からくる不安を取り除く必要がありました。
家族計画連盟(現在、日本家族計画協会)の機関誌は「家族と健康」です。
家族計画は単に避妊ではなく、少なく産み大切に育てる社会を作りました。
この点でも、彼女たちが想像したよりももっと「幸せ家族計画」だったでしょう。
少し余談になりますが、開発途上国には擦り傷を持つ子どもがたくさんいて、
親は擦り傷など意に介しません。
おそらく日本もそうだったのではないかと想像します。
子どもの擦り傷にオロナインを塗る時代がやってきますが、
オロナインがあったからではなく少子化で親の目が子どもに届くようになったからでしょう。

少子化と同時に核家族化が進行します。
「お母さんの手も育つ」のCMには、お母さんの顔は一瞬一瞬しか映りません。
しかし、画面に見えないお母さんの表情は生き生きしています。
核家族の子育ては不安もあり、苦労もあります。
大家族の子育てと核家族の子育ては一概に善し悪しは言えませんが、
大家族の中のお母さんに生き生きした顔があっただろうかと考えます。

1960年には、性のハウツー本である謝国権『性生活の知恵』が出版されます。
同書は1年間で152万部売れ、堂々のベストセラーになりました。
性のハウツー本がベストセラーになることなど、現代では考えられません。
と同時に、家族計画運動以前にも考えられないことでした。

家族計画は一種のユートピア思想でした。
人類の歴史には有名無名のユートピア思想が現れます。
そして、そのことごとくが実現しなかったと言ってもよいでしょう。
ところが、家族計画のユートピア思想は実現してしまったユートピア思想です。
「お母さんの手も育つ」のCMは、実現したユートピアの映像のように見えます。


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家族計画運動は、明らかにユートピアを実現しました。
したがって、家族計画の関係者がその歴史を肯定的に語るのは、
当然のこととも言えます。
当事者以外では、荻野美穂『「家族計画」への道』があります。
同書の帯には、
「ヤミ堕胎や子捨てから、避妊と合法的な中絶へ――。
「産む産まないは女が決める」と日本の女たちが言えるようになるまでの長い道のり、
そしてその後の問題を、多くの証言を丹念にたどりながら浮彫にする。」
と書かれています。(※書中には「産む産まないは女が決める」ようになったとの記述はない。読み落としがなければ。)
家族計画のユートピア性、すなわち光の側面は評価していく必要があります。
しかし、その陰の側面もあわせて評価する必要があると思います。
夫婦が2人の子供を持ち、その子どもを大切に育てようという運動です。
2人の子どもを産んだお母さんに対する運動と言ってもよいでしょう。
家族計画の本質は人口政策です。
未婚の女性は家族計画運動の視野の外にありました。
それを「"産む産まないは女が決める"と日本の女たちが言えるようになるまでの長い道のり」、
と評価することがはたして妥当なのでしょうか。
日本でピルの認可が遅れた最大の「戦犯」は、ピルの認可に反対した家族計画連盟であることは紛れのない事実です。
現代の私たちは、家族計画的価値観をまだ引きずっているように思えます。



仮説的筋書きメモを連載予定。

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