2015年3月27日金曜日

菅原彩加さん被災体験の事実関係について

やや本ブログのテーマからそれますが、菅原彩加さんに対する目にあまる中傷が行われていますので、特別にこの記事を投稿することにしました。


2011年6月7日、CNNは「日本の津波孤児の現状」を配信しました。
現在、動画は見れなくなっていますが、番組内容は以下で知ることができます。
http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/06/07/japan.tsunami.orphans/
この番組は、あしなが育英会が6月7日~12日にかけてニューヨークで行った「東北レインボーハウス」建設のための街頭募金に関連したものです。
(参照 あしなが育英会「東北津波遺児らが米国NYタイムズスクエアで街頭募金実施!」)
菅原彩加さんはニューヨークに赴いた高校生代表の一人だったので、CNNは石巻で菅原さんを取材しこの番組を制作しました。
この番組で菅原さんは経験を具体的に証言しています。
CNN番組での菅原さんの証言を見て見ましょう。(青字は引用)


家は瞬時にバラバラになった


津波が彼女の家を襲った時、彼女は階段にいました。
お母さんは2階にいて、お祖母さんと曾お祖母さんは1階にいました。
彼女の愛犬も1階でした。
地面から大きな音が聞こえ、家は一瞬でバラバラになりました。
彼女は死んでしまうと思いました。

(菅原さんの家の跡

大川小学校のプールまで流された


彼女の家から大川小学校までは100メートルです。
津波の第1波で彼女とお母さんは大川小学校のプールまで流されました。

(家から100mの大川小学校のプール http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/06/07/japan.tsunami.orphans/)


極限状態での母娘の会話


瓦礫に埋もれていた彼女は水が引いていくのを感じました。
お母さんは彼女のすぐ近くにいて、生きていて話しもしました。
お母さんは右足が瓦礫に埋もれ動くことができませんでした。
お母さんは彼女に逃げるように言いました。
(その時の詳しい状況を彼女は語りました。
彼女の顔は無表情でした。)
彼女「わかった。私行くね。」
お母さん「行かないで。まだここにいるんだから。」

(大川小学校の瓦礫の状態 http://f.hatena.ne.jp/takasama1/20110421202102)

 

津波の第2波


彼女が瓦礫から掻き出たちょうどその時、
第二波の津波が襲ってきました。
その津波で彼女は学校の赤い屋根の上に打ち上げられました。※
ここから後の彼女の記憶は定かでありません。
彼女は救出されるまでに2日間の時間があったと思っています。


 (プール背後の校舎の屋根にたどり着いた http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/06/07/japan.tsunami.orphans/)
 
※小学校校舎の屋根の色が赤いと言えるか微妙です。小学校校舎に隣接して赤い屋根の体育館がありました。CNNの伝えた赤い屋根の校舎が体育館を指す可能性も皆無ではありません。しかし、菅原証言どおり、体育館の屋根ではなく校舎の屋根と考えるのが妥当と思われます。その理由は、①CNNのインタビューの行われた6月時点で体育館は取り崩されていたこと、②河北総合支所の職員の証言も「学校の校舎」となっていること、津波の最高水位は校舎屋根の中程までであったこと、の3点です。
 
家族の死

数週間後、お母さんとお祖母さんの遺体が見つかりました。
曾お祖母さんは行方不明のままです。
祖父を除き彼女の血縁者はいなくなりました。
(彼女の現在のお父さんと血のつながりはない)


1週間前のお母さんの写真


お母さんの遺体とともに発見された携帯に残されていたお母さんの写真を彼女は持っています。
 (お母さんの携帯にあった写真 http://edition.cnn.com/2011/WORLD/asiapcf/06/07/japan.tsunami.orphans/)

以上がCNNが伝えた内容の概略です。
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「食い違い」は彼女の責任か?


2011年06月15日付けあしなが育英会プレスリリース「東北津波遺児らが米国NYタイムズスクエアで街頭募金実施!」には以下の内容が書かれています。

<参加した遺児たちの声>
菅原彩加さん(高校1年)は津波に流され、二晩、自宅屋根の上で過ごしました。大きなガレキで背中に傷を負ったとき、彩加さんは飛び上がり、足の爪がはがれました。「母、祖母が亡くなりました。祖父は未だ行方不明です。海から7~8㎞あたりの住民は誰も今回のような大津波を想像していなかった。(津波が発生したとき)みんな家にいたと思う。私は流されましたが、生き残った」。「自分と同じ気持ちを持った世界の人や同世代の高校生たちと会い、互いを励ますとともに共感し合えたり出来たと思います。また、 ニューヨークの人たちやTVや新聞を通して世界中の人たちに被災地の現状や大変さを伝えることが出来たので本当に嬉しい。私たちがアメリカへ来て良かったと思います。5日間という本当に短い間の活動でしたが、とても良い経験になりました」

このプレスリリースはCNN放送と重なる時期のものです。
菅原さんがCNNとあしなが育英会に別の内容を話したわけではないでしょう。
CNNの放送内容と食い違う点は、2点あります。
「二晩、自宅屋根の上で過ごしました」と「祖父は未だ行方不明です」の2点です。
まず後者。行方不明なのは曾祖母で、CNNにはそのように話しているのに、あしなが育英会には祖父が行方不明だと伝えることはあるでしょうか。
あしなが育英会の聞き間違い書き間違いのように考えられます。※
前者の「自宅屋根の上」ですが、菅原さんがそのような嘘を言う理由もないように思えます。
「校舎の屋根の上」と話しているのをあしなが育英会が聞き間違えたか書き間違えたと考えられます。
あしなが育英会のプレスリリースは、伝聞に伝聞を重ねて書かれているように思われます。

※「です・ます」体と「だ・である」体の混ざった文章で、翻訳臭さが感じられます。日本語(菅原さん)→英語(通訳)→日本語(あしなが育英会)だったのかもしれません。


誤報の二次利用


一般財団法人教育支援グローバル基金(BEYOND Tomorrow)の2011年8月29日付けの文書では、あしなが育英会の「自宅屋根の上」の記述が踏襲されています。
菅原さん自身が「自宅屋根の上」と語ることは考えにくいでしょう。
BEYOND Tomorrowはあしなが育英会プレスリリースを参考にし、「自宅屋根の上」としたように思われます。

「泳いで小学校へと渡り」について


中国・大連で9月14〜16日に「夏季ダボス会議」が開かれ、そこで菅原さんはスピーチします。
仙台育英高校サイト内には、「菅原彩加さんのスピーチ(「Tohoku to the world」より)」との記事があります。
この内容は全体的にCNNの内容と重なっています。
1点だけCNNにない内容があります。
その後、私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました」です。
この点を疑問視する方もいるようです。
状況を考えてみましょう。
彼女のいたのは小学校のプールです(下の写真参照)。
そこで第2波の津波に襲われます。
そして彼女は小学校の屋根の上にたどり着きます。
津波は親切に彼女を屋根の上に運んでくれたわけではないでしょう。
彼女は屋根にたどり着こうと努力したのではないでしょうか。
そのことを「泳いで小学校へと渡り」と表現しても、
間違いではないと思われます。
菅原さんの証言では一貫して、第1波の津波で小学校プールまで流され、第2波の津波の際に校舎屋根に泳いで渡ったとなっています。小学校プールから校舎屋根までは水平距離で数メートルです。ところが、2015年03月12日の読売新聞は「100メートルほど泳いで市立大川小学校の屋根で一晩を過ごし」と報じました。誤報に近い不正確な記事です。報道の真偽を吟味することを知らない情報弱者は、菅原さんのスピーチが捏造ではないかと騒ぎ始めました。


※ 河北総合支所の職員の証言学校の校舎に声をかけたところ、校舎から反応があった。後でわかったのは、返事をしたのは、屋根の上にいた、当時中学生の女性と大人の女性。2人は校舎の屋根に流れついて、助けを待っていた。ただ、校舎の周りは水没していたため、どうすることもできない。

【「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。】について


ダボス会議のスピーチにはお母さんとの別れに際して「ありがとう」「大好きだよ」と伝えた話が出てきます。
その時の状況はCNNが報じているとおりでしょう。
極限の状況です。
お母さんにはお母さんの葛藤があり、
菅原さんには菅原さんの葛藤がありました。
お母さんは「逃げて」とも言っています。
「行かないで」とも言っています。
菅原さんにも葛藤がありました。
菅原さんはお母さんを助けようとしています。
そこにまた津波が押し寄せてきます。
「ありがとう」「大好きだよ」
そう伝えることが彼女にできる唯一のことだったでしょう。


「母を見捨てた」と中傷した方々へ


菅原さんは言語を絶する辛い経験をしました。
彼女の心の痛みを私は理解できます。
その彼女が中傷されているのを見て見ぬふりをすることはできません。
彼女を中傷している人達は、不確かな情報の断片に振り回されているように見えます。
今一度、よく考えてほしいのです。
そして彼女を傷つける中傷をし、あるいはそれに加担したのならば、
今からでも遅くありませんから、是非撤回の意思表示をしてほしいと思います。

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追記(2015.4.1)
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ほぼブレていない菅原彩加さんの証言


菅原彩加さんの震災体験として伝えられるものは、
大きく2つに分類できます。
一つは菅原彩加さん自身の証言で、一つはNPOやマスコミなどによる紹介記事です。
菅原彩加さん自身の証言はいわば1次資料であり、NPOなどによる紹介記事は2次資料です。
両者をごちゃ混ぜにして事実関係を詮索するのは意味がありません。
あくまで、1次資料を基にして考える必要があります。
菅原彩加さん自身の証言と考えられるものは、5点あります。
①2011年6月7日のCNN報道(このページ前半部参照)、
②2011年9月14〜16日の夏季ダボス会議スピーチ
③2012年3月米国スピーチ原稿
④2013/07/05に公開されたTeen's Rights Movementメッセージ
⑤2015年3月11日の東日本大震災追悼式スピーチ
の5つです。

①CNN番組インタビューの内容はこのページ前半部に示しています。

②の 夏季ダボス会議スピーチは以下の通りです。

3月11日の日、中学校の卒業式でした。10年間ともに過ごした仲間とのすばらしい別れの一日、一生思い出に残る良い日になるとばかり思っていました。午前中の式を終えてお昼は謝恩会をし、午後二時頃家に帰りました。帰ってすぐでした。
  突然の大きな揺れ、「また地震か」。最初はその程度でしたが、どんどん強くなっていく揺れ。今まで感じたことのない程大きな揺れが日本に起きました。何分経っても止まらない長い長い揺れでした。家の中はぐちゃぐちゃで、家族もみんなパニック状態、「どうしよう、どうしよう」。それしか私は頭に出てきませんでした。しかし、少し時間が経つ と冷静になり、母や祖母なども「家の中、ガラスとかあぶないから片付けようか」ということになり、私の父、母、祖母、曾祖母そして私の五人で家の中を片付けていました。私はふと「あんなに大きい地震は本当にびっくりしたなあ。震度何だったんだろ?」とふと思い携帯を使い調べてみました。すると震度何だったなどというよりも大きな文字で「大津波警報」と表示されているのが私の目に入りました。「えっ津波?」と思い、その文字をクリックすると地域別に予想される津波の高さが表示されていました。石巻は何メートルかなと、石巻の所を見てみると10メートル以上と表示されていました。 私は「これはヤバい」と思い祖母にそのことを伝えました。すると祖母も「10メートル以上ってことは金谷(私の住んでいた地区)まで来るね。逃げるよってママとかに言ってきて」と言われ私は急いで二階へ行き母にそのことを伝えようとしたその時、「ゴォー」という地鳴りのような音が聞こえてきました。「また余震か」と思ったものの、まったく揺れも来ず、「ゴォー」という音がただただ大きくなるだけでした。すると「みんな早く逃げろー!」よく聞くと隣の家の人の声が私の耳に入りました。「これは津波だ。大変、逃げなきゃ」と思い、母の手を引き階段を降りようとした時、「バキバキッ、ガシャン」という音と共に家は壊れ、私たち家族5人は大きな波に飲まれました。
  何が何だかわからなくて、痛くて冷たくて「もう死ぬんだ」ということが私の頭でぐるぐる駆け巡りました。「ギシ、ガチャガチャガチャ」。しばらくの間流されて、私はがれきの山に埋もれ、止まりました。力をふりしぼり、がれきをかき分け出て行くと約20メートルくらいの高さのがれきの山の上にいました。しーんと静まり返り、一言で言えば、“黒い海”という感じでした。そのとき、自分の足下から「ゔ—、ゔ—」とうなり声のようなものが聞こえました。足下のがれきを少しよけてみると私の母の姿がありました。くぎが刺さり木が刺さり、足は折れ、変わり果てた母の姿。右足が挟まって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならない程の重さ、大きさでした。母の ことを助けたいが、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙が止まらない選択です。最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、これ以上辛いことは、もう一生ないのではないかなと思います。その後、私は泳いで小学校へと渡り一夜を明かしました。
  この後も、私が体験したことはもっともっとたくさんあります。辛くて辛くて死のうかと思った日もありました。なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、家族を思って泣いた日も数えきれな いほどありました。

③の米国スピーチ原稿は、以下の通りです。

3月11日は、中学校の卒業式でした。
10年間共に過ごした仲間とのすばらしい旅立ちの日、
一生の思い出に残る良い日になるとばかり思っていました。
 家に帰るとすぐに地震が起きました。
今までに感じたことのないほど大きな揺れでした。
地震が発生して、停電になってしまったため、
テレビから情報を得ることが出来ず、携帯で津波がくるという情報を得て、
逃げようとした時にはすでに遅く、
地鳴りのような音と共に一瞬にして津波は家と私の家族を飲みこみました。
がれきと黒い水に流され、「もう死ぬんだ」「高校の制服を着たかったな」と、
たくさんのことが頭の中を駆け巡りました。
▼続きを読む
しばらく流されてがれきをかきわけて出ていくと、
がれきの下から母が私の名前を呼ぶ声が聞こえました。
がれきをよけると、くぎと木がささり、足は折れ、
変わり果てた母の姿がありました。
右足がはさまって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、
私一人ではどうにもならないほどの重さ、大きさでし た。
母のことを助けたいけれど、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。
助けるか、逃げるか。私は自分の命を選びました。
今思い出しても涙の止まらない選択です。
最後その場を離れる時、母に何度も「ありがとう」「大好きだよ」と伝えました。
「行かないで」という母を置いてきたことは本当につらかったし、
もっともっと伝えたいこともたくさんあったし、
これ以上つらいことはもう一生ないのではないかなと思います。
その後私は泳いで小学校へと渡り一夜を 明かしました。
この後も私が体験したことはもっともっとたくさんあります。
辛くて死のうかと思った日もありました。
なんでこんなに辛いんだろうと思った日もあるし、
家族を思って泣いた日も数え切れないほどありました。
今回の震災で私ははかりしれないほど多くを失いました。


なお、このスピーチ原稿には英語版があります。
内容的には日本語と同じです。
英文は高校1年生程度の英語力では無理な出来映えです。
おそらく本人の翻訳ではないでしょう。

④のTeen's Rights Movementビデオメッセージは、
上記②③と同一内容で、具体的な情景描写など一部が省略されています。

⑤の東日本大震災追悼式スピーチは以下の通りです。

私は東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県石巻市大川地区で生まれ育ちました。
小さな集落でしたが、朝学校へ行く際すれ違う人皆が「彩加ちゃん! 元気にいってらっしゃい」と声をかけてくれるような、温かい大川がとても大好きでした。
あの日、中学の卒業式が終わり家に帰ると大きな地震が起き、地鳴りのような音と共に津波が一瞬にして私たち家族5人をのみ込みました。
しばらく流された後、私は運良く瓦礫(がれき)の山の上に流れ着きました。その時、足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見てみると釘や木が刺さり足は折れ変わり果てた母の姿がありました。右足が挟まって抜けず、瓦礫をよけ ようと頑張りましたが私一人にはどうにもならないほどの重さ、大きさでした。母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。「行かないで」という母に私は「ありがとう、大好きだよ」と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました。


5つの証言は大筋で完全に一致しており、ぶれはありません。
①は最も初期の証言であり、⑤は最も最近のスピーチです。
したがって、この間に彼女の行った記録されていないスピーチも、同様であったと考えてよいでしょう。

なお、細部において3点の齟齬が見られますが、
意図的なものとは考えられません。

a.齟齬1--父親の被災状況説明

被災当時、彼女の家族は曾祖 母・祖母・父・母・彼女の5人でした。
①には父親についての記述だけがなく(②③には家族状況の説明が省略されている)、
④と⑤には父親の被災についての説明があります。
これを齟齬と言えば言えなくもありませんが、
①は被災時に家族のそれぞれがどの位置にいたかを述べたものであり、記憶の定かでない父について語らなかっただけかもしれません。
被災当時の父(継父)はその後、家族でなくなります。思春期の少女にとって語りたくない心理が働いたのかもしれません。
いずれにしても、被災当時父親の状況がどうであったかは、枝葉末節に属する事柄で彼女の証言の信憑性を揺るがすものではありません。

b.齟齬2--屋根上から救出されるまでの時間

校舎屋根上から救出されるまでの期間が2日間であったり、翌日であったりして、ぶれているとの指摘がなされています。
実際に彼女が救出 されたのは震災翌日であったと考えられますから、
屋根の上で一夜を過ごしたという②③④⑤の説明が正確です。
それでは①のCNNには嘘の証言をしたのでしょうか。
CNNの報道では「ここ(学校の屋根の上)で彼女の話はファジーになる--救助隊が彼女を救出する前に2日間が経過したと彼女は信じている」となっています。
彼女は記者にどのように語り、記者はそれをどのように記事にしたのでしょうか。
おそらく彼女は記者に「私は2日間救助を待ったと思っているのだけれど、実際は震災の翌日救出されたみたいです」と言うような話し方をしたと思われます。
記憶と実際の時間経過にずれがあることを彼女自身が話さなければ、
CNNのあのような表現(「信じている」)はなされなかったでしょう。
インタビュー時点で彼女は主観と客観を区別して伝えているのであり、
記者はきちんとそれを踏まえた表現をしていると考えられます。
辛い経験の時間を長く感じることは、何ら不思議なことではありません。

c.齟齬3--瓦礫の上での行動

第1波の津波の水が引いて第2波の津波が押し寄せるまでの時間はそれほど長くなかったでしょう。
その間の彼女の行動について①には詳しい言及がありません。Just as she pulled herself out of the rubble another tsunami wave hit, とあり、彼女が瓦礫から抜け出してからほどない時間で次の津波が来たことが証言されています。
②には「右足が挟まって抜けず、一生懸命がれきをよけようと頑張りましたが、私一人ではどうにもならない程の重さ、大きさでした。母の ことを助けたいが、このままここにいたらまた流されて死んでしまう。“助けるか”“逃げるか”。私は自分の命を選びました。今思い出しても涙が止まらない選択です。」とあり、以後のスピーチでも踏襲されています。
まず、①と②以後は矛盾するものではありません。
②以後のスピーチに見られる「逃げた」については、彼女の心の傷という観点から解釈する必要があります。
彼女とお母さんのいた瓦礫の山と彼女が漂着した校舎の屋根は、水平距離にして数メートルです。
そのことから考えると、彼女はどこか遠くに逃げたわけではないでしょう。
そもそも靴を履いてない状態で瓦礫の上を移動することは困難です。
津波の第2波が襲った時、彼女はまだお母さんと遠くない位置にいたと考えるのが合理的です。
つまり、彼女はほとんど「逃げた」とは言えない状態だったと考えられます。
彼女は「逃げた」わけではないのに、後に「逃げた」と言ってしまいます。
なぜなのでしょうか?
客観的に考えて15歳の少女が瓦礫の中からお母さんを救出することは無理です。
それが無理だったことを彼女は頭ではわかっています。
しかし、どうにもできなかった無念さ、悔しさ。
人の心はその感情をぬぐい去ることはむつかしいのです。
実際には「逃げた」のではなく、津波が彼女とお母さんを引き離しました。
another tsunami wave hit, throwing her high into the air and onto the school's red rooftop.
彼女は水に浮き上がり、お母さんは水に沈みました。
この状況を自分は「逃げた」と彼女は言っているのです。
それは病気で妻を亡くした夫が「妻は私が殺した」と思ったり、
事故で子どもを失った親が「私が子どもを殺した」と思う心理と同じです。
彼女が「逃げた」と感じるのは、彼女の深い悲しみとお母さんへの深い愛の証です。
瓦礫に埋もれた状態でお母さんは、「逃げて」とも「行かないで」とも言っています。
15歳の少女の葛藤はいかほどであったでしょうか。
そのことも、彼女が自分は「逃げた」と思う背景になっているでしょう。


説明責任を果たしていないNPO等


菅原彩加さん自身の発言に大きなブレはなく、多少の齟齬についても理解できる範囲です。
彼女の発言を見る限りで、彼女の発言を虚偽とする根拠は皆無です。
彼女の発言に疑惑が生じたのは、NPO等が事実関係を確認することなく彼女の経験を紹介したためです。
たとえば、あしなが育英会は「自宅屋根の上で」2日間過ごしたと紹介し、Beyondはその記事を踏襲しました。
菅原さんは終始一貫して自宅は一瞬で壊れ瓦礫の上に流れ着いたと言っているのであり、菅原さんが「自宅屋根の上で」云々と発言することは考えられないことです。菅原さんは最終的には校舎の屋根の上に辿り着きます。あしなが育英会などはそれを「自宅屋根の上」と勘違いして誤報を流してしまったのでしょう。
責められるべきは誤報を流した団体等であり、菅原さん自身ではありません。
誤報を流した団体等は誤報が生じた経緯を説明し、誤報について菅原さんに謝罪すべきです。
ところが、誤報を流した団体等は説明責任を果たしていないだけでなく、サイト情報を何の説明もなしに削除するなど最悪の対応を取りました。
そのため、菅原さんへの疑惑がふくれあがることになりました。
また、マスコミ報道の中には、自宅から校舎の屋根まで100メートルを泳いだと報道しているものもあります。彼女自身の証言によれば、「泳いだ」のは小学校のプールから校舎の屋根までであり、水平距離で数メートルです。マスコミの誤報もNPO等の誤報をさらに誤解したために生じました。

ステレオタイプの被災者像


貧富や社会的地位や年齢・性別に関係なく自然災害は襲いかかります。
したがって、被災者も種々さまざまです。
たとえば多額の保険金を受け取る被災者もいれば、日々の生活に困窮する被災者もいます。
酒色に溺れる被災者もあれば、前向きに生きようとする被災者もいます。
清く貧しい被災者像に全ての被災者が当てはまるわけではありません。
しかし、往々にして人々は清く貧しい被災者像に取り憑かれています。
想像力の貧困が生み出す被災者像にこだわる人々は、
そのステレオタイプの被災者像から外れる被災者を排撃することもあります。
被災者の一面を捉えて妬みの言説が発せられることもあります。
菅原さんバッシングは現代日本の精神的貧困が生み出した現象であるように感じます。

菅原彩加さんへ


菅原さんがこのブログを見ることはおそらくないでしょう。
伝えることのできない菅原さんへのメッセージを書いておきます。
菅原さんは慶應義塾大学へ進学すると聞いています。
私はこのブログの中で何度か福澤諭吉について触れています。
福澤は私の尊敬する思想家です。
福澤は「文明の人」とは何かを考えました。
世に阿る(おもねる)ことなく、理不尽に立ち向かう人は文明の人です。
独立自尊の人が文明の人です。
多くの場合、理不尽は理不尽と認識されているわけではありません。
人類の進歩は理不尽に気づき改善する努力で達成されてきました。
理不尽に対して立ち向かう小さな声が歴史を進歩させてきました。
私はピルに関するサイトを16年間主宰してきました。
それはピルを勧めるためのサイトではありません。
ピルをめぐる日本の状況は、日本の女性が置かれている理不尽さを象徴しています。
性の問題は個々人別々の問題で、一般論で処しがたい問題です。
ピルが必要な女性がいます。
必要でない女性もいます。
緊急避妊薬が必要な女性がいます。
必要ない女性もいます。
必要とする女性の声が無視されているのは理不尽です。
その理不尽さに気づいてほしいと私は考えました。
理不尽な扱いを受けている人の声は、
だれにでも聞こえるわけではありません。
聞こうとする人にのみ聞こえます。
私はその声の聞こえる人でありたいと努力してきました。
以前、「五木の子守唄」考 をブログに書きました。
理不尽な扱いを受けている人の声なき声を聞くという姿勢で考えると、
見えてくるものがあります。
理不尽な扱いを受けている人の声なき声を聞くという姿勢は私の哲学です。
菅原さんが理不尽なバッシングを受けているのを見て、
見て見ぬふりをできませんでした。
理不尽に立ち向かう事は福澤の思想だ、と私は考えています。
今の慶応大学にその思想があるかどうかわかりませんが、
菅原さんには慶応大学で理不尽に立ち向かう事を学んでほしいと願っています。

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参考 女性自身2015.3.31号(同誌公式サイト(部分掲載))
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菅原さんバッシングが吹き荒れる中で雑誌「女性自身」は、菅原さん擁護記事を掲載しました。
参考までに以下に記事内容を掲載します。

「行かないで」「ありがとう、大好きだよ」・・・
大震災追悼式”涙のスピーチ”の意外波紋ーー
津波で母と訣別
宮城県遺族代表
菅原彩加さん19を襲った卑劣すぎる「殺害予告」!


19歳の少女が語る生々しい被災体験は、震災の傷の深さを私たちにあらためて思い起こさせた。その陰で彼女は、ネット上での、”心なき中傷”にも苦しんでいた。

≪津波 母残し・・・泣いた日々≫(読売新聞)
≪動けぬ母に最後の言葉≫(朝日新聞)

 3月12日、主要新聞の朝刊一面を、19歳の少女の写真が飾った。
 前日に千代田区・国立劇場で開催された東日本大震災追悼復興祈念式で、宮城県遺族の代表としてスピーチした菅原彩加さんの記事だった。
「足下から私の名前を呼ぶ声が聞こえ、かき分けて見ると釘や木が刺さり足は折れ、変わり果てた母の姿がありました。(中略)母のことを助けたいけれど、ここに居たら私も流されて死んでしまう。『行かないで』という母に私は『ありがとう、大好きだよ』と伝え、近くにあった小学校へと泳いで渡り、一夜を明かしました・・・・」

 4年前の3月11日、菅原さんは石巻市の中学校の卒業式を終え、自宅に戻ったとき、大津波に襲われた。
 一緒にいた母、祖母、曽祖母が犠牲になり、生き残ったのは菅原さんと、職場にいた祖父だけだったのだ。
 切々と読みあげられる彼女の衝撃的な体験は、とかく4年前の悲劇を忘れがちだった多くの国民にも、あの日の”地獄絵図”をまざまざと思い出させた。
 新聞だけではなく、テレビのニュースやワイドショーも、彼女のスピーチを大きく取り上げた。菅原さんに取材を申し込んだ新聞社やテレビ局にも多数あったという。

 だが、菅原さんはどれ一つとして応じていない。
 実は追悼式直後、なぜかインターネット上には彼女を批判する声もあふれていたのだ。
≪自分だけ助かるぐらいなら、一緒に死んでやれよ≫
≪薄情な子供だな≫

 さらに驚くべきことに19歳の少女の命を狙うという、卑劣な殺害予告も繰り返し掲載されていた。
≪菅原彩加がナイフでメッタ刺しされて、母親と再開してフィナーレとか最高のエンディングやんけ!見つけ次第殺せ≫
≪ナイフでメッタ刺しにしてお前の大好きな母親に会わせてやるよ菅原彩加≫

 菅原さんの知人は言う。
「驚いた菅原さんはすぐに警察に相談し、警察も犯人の捜査を始めています。
 多くのマスコミから取材申し込みもありましたが、警察からは『安全のために取材は断ってください』といった要請もあり、依頼はすべてお断りしたのです・・・・」

 この知人によれば、母を失ってから4年、必死に生きるなかでことあるごとに菅原さんは中傷を受け続けてきたという。

「震災直前の2月母と高校に・・・・」
 11年5月、菅原さんは仙台育英学園高校に進学。当時の担任教師だった石山かおりさんは、こう語る。
「震災直前の2月、菅原さんが新入生説明会にお母さんと一緒に来ました。お母さんと笑いながら話していた姿をよく覚えています。とても仲がよさそうな親子だったのに、震災であのようなことになってしまって・・・・。
『今でもお母さんのことを思い出して、時々泣いてしまう』
など、胸の苦しみを語ってくれることもありました。
 入学当初は高校の近くにある寮で生活していましたが、家族のいない一人の時間が苦しかったのでしょう。すぐに退寮して、ご親戚の家、その後はお祖父さまの家から高校に通うようになりました」

 埋めようもない心の傷を抱えながらも、彼女は辛い経験に正面から向き合った。
 菅原さんは日本だけではなく海外でも被災体験を語るようになった。その数は世界7都市で50回にも及ぶという。
「人生は短いんだから、いろんな人に会ってほしい」という亡き母の生前の言葉が、背中を押してくれた。
 さらに前向きに生きるためにスイス留学にも旅立った。

 だが彼女が公の場所でスピーチしたり、活動報告をしたりするたびに、インターネット上から心ない言葉が襲ってきたという。
≪もっと被災者らしく暮らせ!≫
≪震災ネタでスイス留学できていいね≫

 前出の菅原さんの知人は、言う。
「スイス留学の費用が、あしなが育英会の復興支援援助金から出ているといったネットでの批判がありましたが事実無根です。留学費は、海外の財団からの奨学金でした」


「震災スピーチは追悼式典を最後に」
 なぜ、被災者である彼女が攻撃にさらされ続けなければいけないのか。
 ITジャーナリストの井上トシユキさんは、
「菅原さんは、今回の追悼式典でのスピーチ以前から『目をつけられている』状態でした。被災者がつらい体験を語り、乗り越えようとしていることに対して『目立ちたいだけ』『売名だ』などと匿名で攻撃するのは、まさにいじめの構図です。
 ネット上では、称賛されている人をとにかくたたこうとする傾向も見られ、近年ますます悪質化しています」

 また、この”いじめの構図”について、立教大学教授で精神科医の香山リカさんは次のように分析する。
「社会的弱者や、困窮している人への支援を”特権”と誤ったとらえ方をして、攻撃するというケースが増えています。自分も不本意な生活を送っているのに”彼らだけ特権を得るのは許せない”という発想です。
 菅原さんが自分自身の努力や、周囲の支援を受けて、前向きに生きようとしているにもかかわらず、そういった人たちによって攻撃を受けてしまっているわけです。
 彼女は東日本大震災という天災に続き、人災にも襲われているのです」

 苦難に耐え続けている菅原さんの胸中は・・・・。生き残った唯一の家族である祖父に、話を聞いた。
「私にとっても、大震災で3人もの肉親を失った体験はあまりにも過酷でした。
 それは当時中学3年生だった彩加にとっては、なおさらのことだったと思います。きっと日本で生活していても、スイスで生活していても、その記憶が頭を離れたことはなかったでしょう・・・・。」
 実は彼女は震災体験を語ることについては、(11日の)追悼式典のスピーチで最後にしたいと考えているんです。
 彩加は4月から東京の大学に進学します。それを機に一区切りつけるようです。
 将来何をしていくかは、彼女自身が決めていくことですが、何をするにしても強く生きていってほしいと願っています・・・・」

 菅原さんは、スイス留学から帰国後は、東京都内に住んでいるという。
 前出の知人によれば、
「親戚宅に住み、焼き肉店のアルバイトをしながら、4月からの大学生活に備えています。ふだんは明るく、社交的な性格の彼女ですが『まだお母さんのことで、自分にちゃんと向き合えていない・・・・』と漏らすこともありました。いまだに心の傷を抱えているのです」

 追悼式典では「前向きに頑張って生きていくことこそが、亡くなった家族への恩返し」
と、語っていた菅原さん。
 そんな彼女の未来を踏みにじるような行為は、断じて許されない。