これはもともとアメリカの民謡です。
日本では数種類の歌詞があるようですが、
タイトルはいずれも「峠の我が家」となっています。
「峠の我が家」の原詩と日本語歌詞の異同については、
さまざまに考察が行われています。
考察では、特に「峠」の訳が話題になっているようです。
しかし、原詩と日本語歌詞の決定的な違いについては、
言及されていません。
二木紘三のうた物語参照
ページ下部コメント欄も参照
日本語歌詞では一様にmy homeを「我が家」と捉えています。
しかし、原詩のmy homeは「我がふるさと」であって、
「我が家」ではありません。
1番から6番まである原詩は、
いずれもふるさとの情景を描いています。
my homeは1番と6番の歌詞にあります。
ざっと見てみましょう。
home where the Buffalo roam 牛がうろついているのは「我が家」ではなく、「我がふるさと」です。 That I would not exchange my home here to range この平原をこそ私の変わることのないふるさとしたい(と思う)、 と言うことですからmy homeは、 「我が家」ではなく「我がふるさと」なのです。 |
「我が家」のことはありません(原詩と翻訳参照)。
「我がふるさと」の歌が、日本では「我が家」の歌に変わっているのです。
私は「峠の我が家」を和やか・温かい・心和らぐ・団らん・癒しなどと重なる家族の歌だ
と思っていました。
そしてこの歌を好きでしたし、今も好きです。
ところが、後にたまたまHome On The Rangeを聞きました。
「えっ、これは家族の歌でない」と驚いたのです。
歌詞を調べてみましたが、これは100%家族の歌ではありませんでした。
日本語の歌詞の作者もおそらく、
原詩がふるさとの歌であり家族の歌でないことを知っていたでしょう。
あえて、「我が家」の歌にしてしまったのではないかと想像しているのです。
「峠の我が家」の種々の訳詞がなされたのは1960年代前後です(ページ下部追補参照)。
元の詩を忠実に訳して「我がふるさと」の歌にしていたら、
この歌は人々に愛されることはなかったでしょう。
その頃、和やか・温かい・心和らぐ・団らん・癒しなどのイメージを家族は持つようになっていました。
人々の持つ家族についてのイメージを取り込んだので
「峠の我が家」は広く受け入れられたのではないかと思います。
私は小学校の5年生の夏休みに「次郎物語」を読みました。
いや、読まされました。
なぜ「次郎物語」を読まされたのか、未だに不明です。
私にとって「次郎物語」の世界は全く異次元の世界でした。
その家族には、
和やか・温かい・心和らぐ・団らん・癒しなどの要素がないのです。
それはかなりショッキングな世界で、
読むのが苦痛だったことを覚えています。
1960年代だからこそ、「峠の我が家」は受け入れられたのではないかと書きました。
そう書いたのは、あの「次郎物語」の時代には、
「峠の我が家」は決して受け入れられなかっただろうと確信できるからです。
「次郎物語」の世界と「峠の我が家」の世界は、
余りにもかけ離れています。
「次郎物語」の時代の家族から「峠の我が家」の時代の家族へ。
この変化は徐々に進行したのではありません。
農地改革と家族計画が日本に「峠の我が家」を出現させました。
日本の戦後の家族計画運動は空前規模の産児制限運動であり、
その成果は人類史上例を見ないほどです。
(中国の一人っ子政策や開発途上国の産児制限運動のモデルとなりました)
戦後の家族計画運動は新しい家族像を提示するものでした。
夫婦が2人の子どもと明るい家庭を築く。
これは「次郎物語」の家族像とはかけ離れており、
「峠の我が家」の家族像です。
息苦しい「次郎物語」の世界から解放するものが、
家族計画でした。
これが家族計画運動が成功した大きな要因の一つです。
この解放をもっとも歓迎したのは女性達でした。
「家族計画」の斬新性は、家族についてのユートピア思想だったこと。現代日本人が「家族」に対して抱く和やかで暖かくて楽しい家族など、当時の日本には例外的にしか存在しなかったのだから。「家族計画」のイデオロギーを女性が「宗教的に」支持したのは当然だったと言える。
— ピルとのつきあい方(公式)さん (@ruriko_pillton) 2012年11月7日
追補「峠の我が家」は戦後の歌と思い込んでいました。
ところが、それは誤りで1940(昭和15)年、
佐伯孝夫訳詞の「峠の我が家」がリリースされていました。
その歌詞は、以下のようになっていました。
「なつかしや 峠の家
木々の みどり深く
朗らかに 人は語り
青き空を 仰ぐ
あゝ 吾が家
帰りゆく 日あらば
谷水に のどうるおし
けもの追いて 暮さん」
この歌詞はふるさとを回想するというもので、
文部省唱歌「ふるさと」と同じ趣向です。
唱歌「ふるさと」の刷り込みが作用しているように見えます。
「我が家」は懐かしいものであっても、
和やかな暖かみのある「家族」は読み取れません。
他の「峠の我が家」は1960年代前後と推測しています。
1961(昭和36)年NHK 「みんなのうた」で、
中山知子訳詩の「峠の我が家」が紹介されました。
岩谷時子氏、久野静夫氏、滝田和夫氏の「峠の我が家」も、
それと前後する時期ではなかったかと思います。
岩谷時子訳の「峠の我が家」は教科書に出ていたとのことで、
普及したようです。
その歌詞は以下のようになっていました。
あの山を いつか越えて
帰ろうよ わが家へ
この胸に 今日も浮かぶ
ふるさとの 家路よ
ああ わが家よ
日の光かがやく
草の道 歌いながら
ふるさとへ帰ろう
あの山を 誰と越えて
帰ろうか わが家へ
流れゆく 雲のかなた
ふるさとは 遠いよ
ああ わが家よ
日の光かがやく
丘の道 歌いながら
ふるさとへ帰ろう
我が家はワクワクする存在となっており、
「ああ わが家よ」と歌われています。
龍田和夫訳では、
「悲しみも憂いも無き 微笑みの我が家」
と歌われ、
藪田義雄訳では、
「ああ楽し 峠の我が家 うるわしき 明け暮れ」
と歌われています。
戦前の佐伯孝夫訳とは「我が家」の意味が変わってきているように思われます。
佐伯孝夫訳詞のタイトル「峠の我が家」の刷り込みと、
当時の「マイホームブーム」の刷り込みが重なり、
1960年代的「峠の我が家」が作られたのではないでしょうか。
聖処女幻想の国(5)に続く
(1)蘇る聖処女幻想
(2)けがの功名だった改名
(3)国策家族計画運動
(4)「峠の我が家」考
(5)「ふしだら少女」の誕生
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