2013年3月15日金曜日

「五木の子守唄」考


五木の子守唄はよく知られた伝承歌です。
五木の子守唄が掛け合い歌であることは、すでに指摘されています。しかし、現在歌われている五木の子守歌は、掛け合いであったことを無視して、一つのつぶやきのように扱われています。そのため、悲しい少女達のニヒルで絶望的な歌との解釈が広く流布しています。この五木の子守歌を平板なつぶやきから、本来の掛け合い歌に復元して再解釈してみると、彼女たちの豊かな共感の世界が見えてくるように思われます。

まず、この歌の成り立ちについて。
この歌の成り立ちを書こうと思ったのですが、
それについては非常によくまとめられているブログがありました。
kemukemuさんのブログ「五木の子守唄」です。
このブログに書かれていることを知らないと、
五木の子守唄は理解できません。
五木の子守唄は、基本的には掛け合い歌です。
掛け合い歌なので遊び的な要素が入ることがあったでしょう。
大袈裟に言ってみたり、茶化してみたりの要素が含まれています。
それでは、今に伝わっている五木の子守唄は、
戯れ言なのでしょうか?
そうとも言えないでしょう。
即興の掛け合いが繰り返される中で、
共感できる"名句"がセレクトされ、伝承されたのでしょう。
「五木の子守唄」は、いわば子守少女達の共同体が共有していた感性の産物と見ることができるでしょう。



この歌詞について少し解説してみます。
学齢に達すると皆が小学校に通うようになるのは、
今から100年少しほど前からです。
それ以前、明治の初め頃とか江戸時代とかは、
貧しい家の子どもは子守奉公に出されました。
今で言えば小学生の年齢の子どもが子守係として、
お金持ちの家に雇われたのです。


 
   (一)
   おどま盆ぎり盆ぎり 
   盆から先ゃおらんと


   【返し】
   盆が早よ来りゃ 早よ戻る

【一般的な解釈例】
子守り奉公もお盆で年季が明け、もうこの家にいないですむ。お盆が早く来れば、父母のいる故郷に早く戻れるのに……。二木紘三のうた物語
『私は、盆までの約束で、この家へ奉公に来ているのです。盆が来りや、家に戻れれるのです。早く盆よ、来てくれ』と家へ帰れる日を待つ気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


1番の歌詞前半ですが、
お盆までで年季の明ける少女はうれしくて仕方がありません。
盆が来るのを心待ちにしています。
そして「お盆が来ればバイバイだよ」歌います。

返し歌の部分ですが上で紹介したブログが、
「戻る」について当を得た解釈を示しています。
「戻る」についてはその解釈をお借りします。
お盆が年季のことはまれでした。
他の子守少女達はお盆が来ても年季とはなりません。
盆が来ても年季明けでない別の少女たちは、
年季明け少女のウキウキする気持ちは、
痛いほどよく分かります。
その気持ちを思うとこれまであれほど待ち遠しかった盆の里帰りが、
急につまらなく感じられます。
そこで、
「お盆が早く来ても奉公先に早く戻るだけでつまらない」
と居残り少女達の気持ちが歌われます。
それは決してねたみの気持ちなどではありません。
年季明けを迎えた仲間に対する彼女たちでしかかけることのできない祝福の言葉でした。
この短いやり取りの中に、子守奉公から解放される日を待ち望む彼女たち全員の気持ちが凝縮されています。


 
   (二)

   おどまくぅわんじんくぅわんじん
   あん人たちゃ良か衆(し)


   【返し】
   良か衆(しゃ)良か帯 良か着物(きもん)


【一般的な解釈例】
私たちの身なりは乞食と同じだ。あの人たちはお金持ちだから、上等の帯や着物を身につけている。 二木紘三のうた物語
『自分は、身分の低い勧進生まれで貧乏な娘です。それに比べてあの人達はよか衆の家に生まれたもんだから、よい着物を着て立派な帯を締めて、幸せだなあ』と羨む気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


くぅわんじん(勧進)は物乞いを意味します。
ある子守少女が雇い主のお金持ちに対比させて、
「自分は物乞いだよ」と歌います。
それに対して、別の少女が、
「そうだね、雇い主のお金持ちは良い帯をしてよい着物を着てるよね」
と応じます。
雇い主にも同じ年頃の少女がいたかもしれません。
衣装に目が向くのは、いかにも少女らしいところです。

このやり取りで注意したいのは、
「自分は物乞いだよ」と述べている点です。
自分を卑下し雇い主やその家族を羨んでいるとも取れる歌詞です。
しかし、もし自分を卑下していたら、
「自分は物乞いだ」とは言わなかったでしょう。
人間としてのプライドをしっかり持っていたからこそ、
「自分は物乞いだ」と言えたのではないでしょうか。
それはこの子守唄全てに通じるテーマでもあります。
この子守少女たちは、人間の尊厳とか平等性とか権利とかプライドとか、
そんなしゃれた語彙は持っていません。
彼女は言います「私は物乞いのようなものだ」と。
「私は物乞いのようなものだ」
「私は物乞いのようなものだ」
「私は物乞いのようなものだ」
彼女の言葉はそこで終わっています。
しかし、ここで彼女の言いたかったことは、
「私の身なりは物乞いのようなものだけど、心は皆一人の人間だよ」
ではなかったでしょうか。
その思いは、掛け合い相手の少女も同じでした。
しかし、歌い元の少女への共感を示す言葉が見つかりません。
掛け合い相手の少女は精一杯の共感をこめて、
「そうだね、雇い主のお金持ちは身なりは良い帯をしてよい着物を着てるよね」
と応じます。
この解釈は余りにも主観的かもしれません。
しかし、私にはどうしてもそう思えるのです。
虐げられた人々は時に自分を卑下するような言葉を口にしますが、
それは決して真意ではありません。
「どうせ私は馬鹿ですよ」が、
「私は馬鹿ではありません」を意味するのと同じです。


 
   (三)

   おどんが打っ死(ち)んだちゅうて
   誰(だい)が泣(にゃ)てくりゅきゃ


   
   【返し】
   裏の松山 蝉が鳴く


 
   (五)

   おどが打っ死(うっちん)だば
   道端(みちばちゃ)いけろ


   【返し】
   通る人ごち 花あぎゅう


【一般的な解釈例】
私が死んだら、だれが悲しんでくれるだろう。裏の松山で蝉がなくだけだろう。
私が死んだら、人通りのある道の端に埋めてください。通る人たちがそれぞれに花を供えてくれるだろうから。二木紘三のうた物語

『私が死んだって、誰も泣いてはくれない。裏の山で、蝉が鳴いてくれるぐらいのものだ』という諦めの気持ちを言ったもの。
『私たち、身分の低い娘が死んだとて、墓どころか裏山に捨てられ、誰もかえり
見てくれないでしょう』という気持ちを言ったもの。東京人権啓発企業連絡会


ある子守少女が歌います。
「自分が死んでも誰が泣いてくれてくれようか、誰も泣いてくれない」と。
5番の歌詞、「自分が死んだら、道ばたに埋めろ」はもっと強烈です。
ゴミのように道ばたに埋めろと歌っています。
年端のいかない少女の歌です。
胸が痛みます。

ただ少女は本当に死を意識していたわけではないでしょう。
寂しい心の内を理解し合える仲間なので、
少し大袈裟に「死んでも」とか「死んだら・・・」と歌い掛けているのです。
寂しい心の内をわかり合える仲間だとわかっているから、
大袈裟に言ってみたり悪態めいた言い方をしたりしているのです。

歌い元少女の寂しい気持ちは、
掛け合い相手の少女にも痛いほどよくわかります。
しかし、歌い元の少女に共感を示す応答をすれば、
お互いが惨めになってしまいます。
そこで「裏の松山で蝉が鳴くよ」とか、
「通行人が花をあげるんだからその方がいいんじゃない?」
と茶化したり、突き放したりの応答をしています。
それは同じ境遇の者同士だからできる、
心の通い合った仲間だからできる慰め合いの言葉です。

なお、「裏の松山」はおそらく修辞でしょう。6番の歌詞の「つんつん椿」のつんつんも同じく修辞でしょう。
松林には蝉はいません。「裏の松山」という架空の修辞は、「蝉が鳴く」というリアルな言説をフィクション化する働きをしています。
「つんつん」は語調を整えるとともに、やはりフィクション化の働きをしています。
彼女たちは掛け合いで、身につまされるような現実を語っています。
息の詰まるような話しであったからこそ、その中に修辞を紛れ込ませることを覚えたのでしょう。


 
   (四)

   蝉じゃごんせん
   妹でござる


   【返し】
   妹泣くなよ 気にかかる


【一般的な解釈例】
泣くのは蝉ではなくて、妹だ。妹よ、泣かないでおくれ。お前のことが心配でならないから。
二木紘三のうた物語
『蝉だけじゃなかった。肉親の妹も、私が死んだら、こころから泣いて悲しんでくれるでしょう』という諦めの気持ちを言ったもの。
東京人権啓発企業連絡会

「死んだら・・・」「蝉が・・・」は、
やや現実を離れた掛け合いです。
歌い元の少女は、今度は現実にぐっと引き寄せて、
「泣くのは蝉じゃない、妹だ」と歌います。
架空の話から現実の話にがらりと転換しています。

掛け合い相手は、引き戻された現実の世界にたじろぎ、
「妹泣くなよ 気にかかる」と率直に真情を吐露しています。
寂しさや孤立感に対して「誰も泣かない、道に埋めろ」と強がりを言ってみても、
いざ具体的な家族が想起される時、もう強がりでは語れなくなっています。
「妹泣くなよ」は、自分に対して「泣くなよ」と言い聞かせる言葉なのでしょう。

なお、この妹は子守少女仲間を指していた可能性もあります。
少女仲間の間で、先輩後輩を姉さん妹と呼ぶこともあったようです。
そうすると、「蝉が鳴く」と返した後輩に「泣くのはおまえだよ」と切り返しているようにも思えます。
歌い元がそのような意味で妹と言い、掛け合い相手もその意味を分かっていたとしても、返しは実際の妹の話しとして返しています。


 
   (六)
   花は何の花
   つんつん椿


   【返し】
   水は天から 貰い水


【一般的な解釈例】
供えてもらう花は椿がいいな。閼伽水(あかみず)をもって墓参してくれる人がいなくても、雨が閼伽水の代わりになる。二木紘三のうた物語


歌い元の少女は
「自分の墓に手向けてくれる花は一体何の花何なんだろう?
そこらかしこにある椿の花?」
と歌いかけます。
おそらく椿の花であることにそれほどの意味はなかったでしょう。
少女が思いついた花がたまたま椿でした。

掛け合い相手の少女は返歌に窮します。
現在伝えられているのは「水は天から 貰い水」だけですが、
数多くの返歌が考えられ歌われていたのでしょう。
その中で自然にセレクトされ残ったのが「水は天から 貰い水」でした。
子守少女達がこのフレーズを編み出し、セレクトしたのはなぜでしょう。
それは想像するしかありません。
草木が生きていくのにも、人間が生きていくのにも、
水は必要です。
そしてその水は天から等しくもらっているものだ、との感覚。
彼女たちが共有していたこの感覚が、
このフレーズをセレクトさせたのではないかと私は想像します。
彼女たちは厳しい格差社会に生きていました。
彼女たちは平等という言葉は知っていなかったかもしれませんが、
人間の本来的平等性の感覚は持っていたのではないかと考えます。
その彼女たちがセレクトしたのは、
「水は天から 貰い水」でした。


五木の子守唄の歌詞の意味をざっと考えてきました。
五木の子守唄は見方によれば、
子守少女達が境遇の厳しさを歌い自らを卑下している歌です。
言い換えると、かわいそうな子守少女達が作った子守唄です。
実は、私も昔そのように理解していました。
そのころ、私は真実は言葉で語られると考えていました。
ところが、このように考えていると見えない真実があることに
次第に気づくようになりました。
ヒスパニックの貧しい少女達と接している友人は、
彼女たちは自分より真実を知っている、
だから彼女たちに学んでいるのだと言ったことがあります。
自由という言葉が生まれる前に自由を求める人がいました。
平和という言葉が生まれる前に平和を求める人がいました。
平等という言葉が生まれる前に平等を求める人がいました。
自由や平和や平等と言う言葉をよく知っている人は、
本当に自由を求めている人に気づかず、
本当に平和を求めている人に気づかず、
本当に平等を求めている人に気づかないかもしれません。
なぜなら、本当に自由や平和や平等を願った人達は言葉を持っていません。
私は五木の子守唄を編み出した少女達が、
格差社会をどれほど恨んでいたか、
人間の尊厳をどれほど希求していたか、
と考えました。
そして決して自らを卑下する人でなく、
彼らなりの方法で境遇に雄々しく立ち向かった人たちであると考えました。
私は五木の子守歌を生み出した少女達を憐れむ気持ちにはなれません。
そのような気持ちは彼女たちに失礼です。
彼女たちこそ、真実を知る人でした。
私達は彼女たちから多くのことを学ぶことができると考えています。

「ピルとその周辺」のブログがなぜ「Home on the Range」を「五木の子守唄」を取り上げるのか、不思議に思われている方も多いでしょう。
その種明かしにもう一歩の所まで来ました。

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